価値観の違い~思いやりとは~
先日旦那と話をしていて、否、喧嘩をしていて話の中で提起された問題の中でなかなか深く、面白いと思ったものがある。
毎日を仕事と育児の両輪で生きる彼は週休が1日になる日も珍しくなく、大抵頭が痛いとか、疲れたと吐露していることが多い。それは仕方がないことであり、本人のもともとの体質でもある片頭痛と、休みなくオンオフ働き続けるライフスタイルが負担になり実際に疲れているのだから致し方ないことなのだ。それは私も重々承知し、理解しているつもりである。本人も頑張っているし、それゆえに疲れるのは誰だってそうなのだ。
私はというと、育児と家事で疲れてはいる。しかし、疲れていることを表にあまり出したくない。
これは私自身の価値観で、疲れていることを否定するつもりはないが、自身が疲れていることを他人がどうこう出来るものではない、と思っているため疲れているならば、休息をとろう、または少し仮眠を取ろう、温かいコーヒーを飲んで気持ちを切り替えよう、とその疲れと自分自身で向き合い、対策し、付き合っていくしかないのだと思っている。なので、正直「疲れた」「疲れた」と言われても「休んだら?」「少し寝たら?」としか言いようがないし、自分に至ってもそうだと思っているのであまり口にしたくない。これはお互いが疲れていることを前提にしている、ともいえるような気がする。
疲れた気持ちを吐露すること自体には異論がない。好きにしたらいいと思う。けれどもそれを聞いている側の気持ちも考えるべきだ、と私は思う。休んでも休んでも疲れがとれないなら何かもっと策を練るべきだし、場合によっては病院などに行くべきだ。そもそも疲れたと口にするだけで休む姿勢が見られず、手すきの時間もスマホやゲームアプリで遊んでいるのでは疲れに対する姿勢がまず間違っていないか?と疑問に思えてくる。疲れるのは物理的に仕方のないことだが、いい大人であればその疲れを自ら癒す術も身に着け、疲れと上手に向き合っていくべきだと思うのだ。
よって端的に私は「疲れた、疲れた」と吐露するのが好きではない。自分のためでもあるが、これはある意味相手のためでもあるように思っていた。
しかし夫に言わせるとこれは「気持ちの共有」がなってないことになり、(疲れた気持ちを吐露しない)ハードモードを自ら強いているだけで、同じハードモードをこちらに押し付けないでくれ、ということらしい。彼はノーマルモードで人生を謳歌しているそうなのだ。
確かに押し付けるのは違う。私は吐露せずとも、彼は吐露したらいい。けれども、問題は「そこに反応する必要はあるのか?」ということだ。
「疲れた」
「お疲れ」
これだけで済むのなら良い。お互いウィンウィン(とは言葉が少々違う気もするが)だ。
しかしこの「疲れた」が「(俺は)疲れた(んだからそこんとこ承知しといてくれよ)」となってくると話が変わってくる。分かってるよな?というニュアンス、それは様々な想像を掻き立てる。それはもう受け手の解釈の仕方次第なのだ。
彼はよく疲れていることを理由に言葉の選択を間違ったり(要するにキツイ言い方をする)、照明をつけっぱなしにしたり、何かをしっぱなしの状況にすることを「許せ」と主張してくる。疲れているのだから、ミスくらい見逃せ、ということらしい。
でもでもでも。
それらの尻ぬぐい?後始末?をするのって誰なんだ?
誰かがやってくれると思ってるでしょ?仮にこちらが疲れていたとしてもこちらがそのやりっぱなしの状態を修正したり、キツイ言葉を浴びながらも相手を慮るのかい?
やー、それはないっしょ。(これがMY主張)
よくお互いをカバーしあう、というけども。それは一方が疲れていてもう片方が疲れていなかったら成り立つな?では、両方が同時に疲れていたらどうだい、どうカバーされるんだ。どちらかが犠牲になるんではないのかい、え?笑
と思うので、結局旦那の言うハードモードの方が自己を律する結果お互いを思いやってるんじゃないのかな、というのが私の結論。論破はしてないけども、ノーマルモードとやらの納得もしていない。そもそもハードモードという名称もおかしいなと感じているくらいだ。
腹が立ったけど議論としては面白かったので書くに至った。
笑