神はいるのか、いないのか(後編)
方々に散った神達はまた再び元の地へと帰り着いたであろう頃。
前回老いという視点から大人を考える、という記事を書いた。
今回はその続きについて。少し前にネットで記事を読んでいたら現れた九星気学占い、というものをやってみたところ、どうやら私は三碧木星に該当するらしい。そもそも九星気学に詳しくないけれども、そこに記載されていた流れというものに言いたいことが多分に含まれる気がしたので引用してみる。
「主役はもう自分たちの世代ではない」ということを認める、受け入れることもあるのだろうと思います。ただそれは「退場」や「傍観者になる」という意味合いではなく、役割が変わるという話なのでしょう。自分が下の世代のために何が出来るか、本格的かつ具体的に考え始める人もいそうです。という文の中の「役割が変わる」という点が最もらしいかもしれない。
ひとつ思うのは、自分の人生の主人公は自分であり、主役という点では変わらない、ということ。しかし大きな社会の一員としての自分はもはや主役の座にはついていないということ。
つまりショーのエキストラであってもそのエキストラの人生を謳歌していい。ヒーローやヒロイン、はたまた二枚目三枚目といった主役級に固執しない、と言ってもいいかもしれない。
人生を有限と捉えれば年を重ねるほど残される日数が少なくなるのは当然のこと。では今のこの時間からいつか来る死までの時間をどのように過ごすのか。望むことすべてが叶う人生だったらば、どんなに幸せだろうか。もしくは、不幸せだろうか。多くを成すにはあまりに人の一生は短く、また叶わないことが沢山あるからこそ叶えていくものを選択する、ということに意味があるのだと思う。
その意味で大人は常に選択を迫られていると考えられる。自由に選択できる場合もあれば、やむなくその選択肢に頼らざるを得ない場合も少なくはないだろう。そうした選択の後にふと沸き上がる寂しさや悲しさを多少抱えながらも、それでもこの選択肢で良かったと自身を納得させられるか。そっと執着を手放し、今手元にあるもので満足することができるか。
この自分がしたことや自分の存在価値を、他者からの評価に関係なく、自分で認め、価値があると考える。誰かにほめられたり、認められたりすることを求めない、ということ。特に「他者からの評価に関係なく、自分で認め、価値があると考える」という部分はかなり重要に思える。これは自分のした選択とその結果としての今の自分を受け止める、ということであり様々な情報にすぐにアクセス出来る現代ではなかなか難しいことかもしれない。自信なるものは誠に揺らぎやすく、価値は時間の流れと共に次々と取って代わる。
すべてを変えていくほどの野心や向上心は社会性の獲得と共にどこかに霞んでいってしまった、だがすべてをそのまま受け入れるだけにはまだ早い…二ーバーの祈りは、年を重ねて大人という年齢になった者たちの悲痛な祈りにも通じるかもしれない。
さて主役はもう自分たちの世代ではないということを認める、という話に戻るが、長らく自分という軸でのみ生きてきたのにどの様にその座を降りるのだろうか…そこでアドラーは他者を愛することにより共同体感覚にたどり着くことが出来ると説く。
この共同体感覚をもって私という主語から降りる、つまり役割を変えるということができるのだろう。またそうした感覚でこそ、他人のため損な立場に回ること、つまり遠慮することが可能なのかもしれない。それが本物の大人になるということのひとつだと曽野は説く。
大人は無邪気であってはいけない、ということ。それは年月を経て得たもの、失いつつあるものに向き合い対処する、ということなのかもしれない。
無知ではいられなくなったこと、知ったからこそ見えるようになった違う視点などを考慮に含めて判断をするということ。見えるものが全てではないと知ること、そして何より考えること。教科書の隣に参考書を添えて勉強したあの頃のように、ゆく先の生の隣に本を備えて学び、考え続けるということ、そして先々で起こる選択とその結果に自身を認め、また変えられるものを変える努力をし、変えられないものはそっと手放す勇気を持つこと。
それが大人、ということなのだろう。