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【統合失調症】峠を越えた後で
皆さん、こんにちは。しおねです。
寒い冬がやってきて、お鍋やお餅が美味しい季節になってきましたね。
今日は、陽性症状が悪化した後、転院先の病院に通院していく経過、症状が治まった頃のこと、陰性症状について書こうと思います。
以上の4本立てとなっております。
効かない薬
実家付近での病院探しは難航を極めました。母親が保健所に電話して、心療内科のある病院をピックアップしてもらうのですが、なにせ初診の予約が全然取れない。
事情を話して、今すぐにもかかりたいところでしたが、なんとか1ヶ月以上先に予約を取り付けてもらうことが出来ました。その病院は、実家から車で片道1時間の場所にありました。
その間、私は転院前に自分の街の病院で貰った0.5mのレキサルティを飲んだり飲まなかったりを繰り返していました。薬を飲む習慣が無かったので、まちまちになっていました。
その後、母にしっかり薬を飲むように言われ、気をつけて飲むようにしていましたが、症状は全然治まりませんでした。
その間も、私の激しい被害妄想は続いていました。SNSを見ては、「ここに行けって暗号で示されてるから行かなきゃ!」とか、そんなこと一言も書いてないのに「この人に攻撃的なことを示唆されている」とか。初めは家の近くが目的地になっていました。より具体的に表すと、SNSの投稿に緑のもの(マスカット等)が映ったら、外に出て近くの郵便局や消防署に向かうという全く意味の分からない奇行でした。
外に出ていく度、父親に怒られました。実家は自営業…というか家がほぼ職場みたいな感じだったので、その周りをうろつかれると親は大変迷惑だったのでしょう。冷静になった今私でもそう思います。
治療開始
やっと予約の取れた病院に両親と行くことが出来た私は、その頃には陽性症状の妄想で疲弊しきっていました。
医師のカウンセリングを受け、「統合失調症って知ってますか?」と聞かれます。聞きなれない言葉を聞いて、私は呆然とします。紹介状に既に書かれていると医師は言いましたが、前の記事にも書いた通り言われた記憶が無い私はそこで初めて自分の病名を知るのです。
私はまず初めに、自分の身に起こっていることを話しました。「SNSで暗号を送られる。TVが自分の噂話をしている。監視されている。私の過去も、自分の今の言動行動も全て見られていて、使っている下着も知られている」と。
話を聞いた医師は一言、「それは大変お辛いですね」と言いました。
両親も、誰も私の話を真面目に聞いてくれない。私の話を本当だと思ってくれない。私の中ではそれが真実なのに。そう思っていた私にとって、医師のその一言は凄く温かに感じたのです。医師は私に妄想を訂正するように求めてきたりはせず、話を聞いて、薬の量を0.5mから2mに増やすと言いました。私が薬が効かないと言ったためでしょう。通院と薬の服薬が今後継続的というより永続的に必要になることを伝えられ、処方箋を出されてその日は終わりました。
増やされた薬を飲み始めた頃、すぐにおさまらない陽性症状に私はイライラしていましたが、次第にそれはなくなっていきます。
飲み始めてからある日、妄想と現実の境目がわかってきたと言えばいいのでしょうか。SNSを見ていて、もし本当に監視されているんだとしたら現実と辻褄が合わないなと感じることがあり、それをキッカケにして、「監視されるのが怖い」から「監視されてないような気もしてきたし、別にされてても気にしなくていっか」と思うようになっていったのです。
消えていく陽性症状
転院後2ヶ月ほど経つと、私は監視されているという感覚がほぼ無くなり、監視されていないのだからSNSでどこかに行けと示唆されているのも自分の妄想だ、と認識できるようになっていました。薬との相性が良かったのかもしれません。この頃には、テレビを見ながら食事することも出来るようになっていました。
統合失調症の症状には、幻覚・幻聴がある人もいるのですが最後まで私には現れませんでした。
医師にも、「あなたはかなり短い期間で治まった方だと思います」と言われていました。
比較的落ち着いてきて、今度は現実的な問題について悩むようになります。
お金の事です。休職している間もわずかながら休職手当が出ていました。しかし、それもずっと貰える訳ではありません。陽性症状が治まった私は、休んだ分活動的な気持ちになっており、今の会社を続けるのか、転職活動を始めるべきかを考え始めます。しかし、医師には今が一番大事な時で焦ると再発の可能性があると伝えられました。休める分だけ休んで、会社から貰えるものは貰ってしまってから考えましょうと。
焦る私に、医師は医療費が安くなる自立支援医療や、傷病手当金、障害年金の話をしてくれました。求人検索はあくまで検索するだけに留めてくださいとも。
この頃の私はよく働きたい、何かしたいと言っていました。沢山の求人サイトに登録しては毎日検索を繰り返していました。ド田舎の実家暮らしで、サブスクでアニメやドラマ、Youtubeぐらいしか娯楽の無い生活に嫌気がさしていたのもあるのでしょう。
しかし、この頃の私はこの後に待っている陰性症状にこれから向き合うこととなるのです。
陰性症状と孤独
毎月1回の通院と毎日の服薬。これだけを守り、陽性症状の落ち着いた私は治り始めは活動的だったものの、だんだんと無気力に襲われ始めて、日中もよく眠るようになります。今まで陽性症状による妄想で働かせ続けて疲れた脳を休めるために、必要なリズムだったのだと思います。
薬の量を一気に増やしたためなのか、陰性症状のせいなのか、私は表情が乏しく感情の起伏も無くなり、挑戦的かつ積極的で明るかった性格とは正反対になりました。
いつも、カーテンも開けず布団の上でSNSや動画サイトを見て過ごして一日を終える。その繰り返しです。
まるで、携帯が自由に触れる入院生活でした。この陰性症状なのかそれとも回復期に入ったのかわからない期間が半年以上続きました。
それでも、途中で突然焦燥感に襲われ、就活エージェントに登録して、面接を受けてみたりもするのですが何社も落ちて1社だけ受かるけれど全く行く気になれず断ったり…という日々でした。
ずっと実家にいて動けないものだから、親も嫌気がさしてきたのか、特に母親は「いつ出ていくんだ」とか「早く就職してどこでも行け」と感情的になって言ってきて、翌日の朝に謝ってくるみたいなことが何度かありました。やはり、実家の雰囲気って私の子供の頃とあまり変わらないなと虚しさを感じました。
自分は一生このままなんじゃないだろうか。働くことも踊ることも叶わずに、実家に居座って、税金の支払いに脅えて、健康保険料が払えるか不安になりながら親にぶら下がって生きていくしかないんじゃないだろうか。毎日そんな焦燥感と息苦しさが胸の中を渦巻いていました。
しかし、そんな私にひょんなことから一つの転機が訪れるのです。
それについては、また今度書こうと思います。
今日はここまでとします。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
あなたに素敵なことがありますように。