商業ライターってなんだろう、と悩むこともある
私、年齢52歳。大学を卒業後、フリーランスのライターとして活動を始め、今年で27年目を迎える。
こういう“数字”だけを見ると、大ベテランの経験豊富なライターという感じがするが、蓋を開けてみればなんということもない。おそらく20代の駆け出しライターとたいして変わらないようなことで、毎日ぐじぐじと悩んだり落ち込んだりしている。
ちょっとしたことですぐつまずく。自信をなくす。本当に私は「書く仕事」をしていていいのですかと、誰かに問いかけたくなる。
今年に入ってから新しい媒体で定期的に取材記事を書かせてもらえることになった。zoomでインタビューした内容をまとめて提出するところまでが私の仕事で、記事は編集部(私はこの会社から仕事をもらう)⇒クライアント(発信元の大手企業)⇒取材対象者のチェックを経て、WEBサイトにアップされる。
報酬は安く、私の経験や感覚からすると、この2倍はもらってもいいと思うほど労力と時間はかかるが、これまであまり関わったことのない業界の媒体で面白かったし、新規案件ということもあって、続けようと思っていた。
月に2本程度だし、記名入りの取材記事を書かせてもらえることも、今の私の仕事スタイルとしては理想通りだった。
でも、5本やって辞めた。「辞めさせてください」とお願いした。
できれば辞めないでほしい、取材対応から原稿提出までいつもきちんと真剣に向き合ってくださるので続けてほしいと、ありがたいことに引き留めていただいた。
すぐ了承されると思っていたので、意外だった。そのことは本当にありがたく、迷惑をかけることを申し訳なくも思ったが、再度考えてみてもやはり気持ちは変わらなかった。
商業ライターって、なんだろうな、と思う。
私はアーティストではないから、自分の感性で書いたものを世に出して評価されるのを待っているわけではない。
私に仕事を依頼するクライアントや制作会社があって、その人たちの要望通りのものを書く。カタチにする。ずっとそうやってきた。
もちろんそこには多少なりとも自分の感性やセンスも入ってくるし、どちらかといえば知らないことを勉強して書くことが多いので、ある程度の知性・知識のようなものも要求される。
だから、カタチになったものに、「私」がまったく存在しないわけではない。「私らしさ」のようなものがわずかながらでもそこにはある。
同じ人に取材して同じ要望通りに記事を書いても、「私」が書いたものと「他の人」が書いたものとでは、何かしら違うものになるはずだ。
私はこの仕事が好きだし、誇りのようなものさえ持っている。
ただ、時々、とても辛くなってしまうのだ。
それは今回のような仕事。
私は自分の名前が入る記事に関しては、ある程度、自分らしい文章を書いていいと思っている。10人ライターがいれば、10通りの書き方があり、そこに正解などないと思っているからだ。言葉のチョイス、表現の仕方、文章のリズムなどは必ず違いが出る。できれば読者にはその個性も楽しんでもらいたい。
だが、今回の仕事は、それが許されなかった。書いている内容は変えずに、言葉や文章のリズムがことごとく「誰かのもの」に変換されていた。ほとんど原型をとどめないほど朱書きが入って戻ってきた時には唖然とした。
たとえば、文章のリズム。
「~です。しかしながら、~で・・・」と途中で切る場合もあれば、「~ですが、~で・・・」とつなげる場合もある。
「Aだから、Bだったのです」とする場合もあれば、「Bだったのは、Aだからです」とする場合もある。
どちらも意味は同じになる。こういうのはライターの「文章のリズム感」みたいなもので、どちらが正解とかはない。
でも、そういう箇所がことごとく修正されているのだ。
また、確かに言葉を補えば補うほど、丁寧な文章になるのはわかる。
ただ、取材している時の感じから、ここはあえて曖昧にしたい、ということもある。
たとえば、「私は文章を書くのが好きです」という文があるとする。それを「私は文章を書くことで喜びを感じるので、書き続けています」とするとどうだろう。ものすごく丁寧に伝えているようには思うが、実際に本人はそう言っていない。ではこれが間違っているのかといえば、間違いでもない。そういう気持ちは確かにあるだろうから。でもすごく限定的になってしまう。
この原稿の形式がもし客観的に第三者目線で書くもの(「○○さんはこう話した。」のようにライター目線での文章)なら、私も言葉を補うことには賛成する。
だが、今回の案件は一問一答式のインタビュー記事。相手の言葉がそのまま「話し言葉」として書かれている。だから、なおさら取材時の話し方、ニュアンスを大事にしたいと思った。細かな説明がなくても省けるところは省き、その人の「人となり」が自然に伝わるような原稿にしたかったのだ。
でも、それは許されなかった。
私が感じた「○○さん」はすっかり消え去り、編集者か校正者の「誰か」の好む言葉とリズムに書き換えられてしまっていた。
ああ、そうか。この仕事で私がやることは「下書き」か「たたき台」なんだと思った。そこに「誰か」が肉付けして、自分の好きな表現とリズムに変えて、自分の文章にしてしまう。
完全に「私」が消え去った自分の原稿を見て、怒りのような悲しさのような、なんとも言えない感情が湧き上がってきた後、残ったのは虚しさだった。それで、この仕事から離脱した。
以前、私は自分の仕事のことを、村上春樹氏の言葉を借りて、「文化的雪かき」と表現したことがある。
今読み返してみても、この気持ちは変わらない。
自分の仕事は、文化的雪かき。
書くというほどのことじゃないですね。穴を埋める為の文章を提供しているだけのことです。何でもいいんです。字が書いてあればいいんです。でも誰かが書かなくてはならない。で、僕が書いているんです。雪かきと同じです。文化的雪かき。
春樹氏が物語の中で「僕」に言わせたこの部分。
どうしてなんだろう、今日はこの引用部分を読むと、涙が出てくる。
嫌だ、嫌だ、そんな仕事、そんな書き方は嫌だと叫びたくなる。
もう少し自分に文章を書く才能があれば、こんな虚しい想いなどしなくて済むのだろうか。結局、「誰か」が私の原稿を自分のものに変えてしまうのは、私の書くものが「その程度のもの」ということなのだろうか。
いつも、どんなに小さな仕事でも、安い仕事でも、真摯に向き合って、取材相手の発した言葉や思いを大事に表現してきた。そうすることが好きだった。
だから、そうやって書いたものが、別のものに変えられていくのを見ることには耐えられなかった。
やっぱり私は「僕」とは違う。
「穴を埋めるための文章を提供する」だけでは我慢できないんだ。
私は「私」の文章を書きたいし、それを認められたい。
でも、そんな仕事ばかりじゃないんだなぁ……。当たり前だけど。
「今回はたまたまそんな仕事だっただけ」
「他の仕事ではうまくやってるやん」
「いろんなところで認めてもらえてるよ」
必死にポジティブな自分を登場させて、自分に言い聞かせようとするが、まあ、ダメだ。久しぶりに、超ネガティブ、劣等感、自己否定が炸裂中。
所詮、自分はその程度のライターだと、穴を埋めるための文章を提供するくらいしかできないのだと、マイナスな感情に支配されてしまう。
たぶん、もうしばらくはこうやって、うじうじして過ごすのだろうな、と思う。
もう少し文章が上手ければ……!
もう少し取材が上手ければ……!
この26年間、何度そう思い、願い、悔し涙を流し、打ちのめされてきたことだろう。
四半世紀やってもまだこんなところにいる。高い山の頂を見上げている。
20代と何も変わらない。成長のない自分にあきれる。
それでも、やっぱり時間が経てば、顔を上げて、また私は書くのだろう。文化的雪かき仕事に戻る。それしかない。
そう。
どんなに打ちのめされても、虚しくても、それ以上に私は「書くこと」が好きで、「書くこと」に救われてきたから。
だから、結局、たどりつくのはこんな結論。
またがんばろう!
明日はまだ失敗も後悔もない、まっさらな日!
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