離れていても、夢で会いに来てね。
「ねえ、好きな人の夢に出られる方法って、知ってる?」
昨晩読んでいた青山美智子さんの小説『鎌倉うずまき案内所』の中に、こんなセリフが出てきて、ふと思い出したことがあった。
現代では「好きな人」の夢を見ると、それは「自分」が「相手」のことを好きで、その想いが募って「相手が夢に現れた」と考えるのが普通だ。
朝目覚めた時、「昨日、Aくんのことを考えながら眠ったから、夢に見ちゃったんだなぁ……」なんて、誰でも一度くらいは思ったことがあるのではないだろうか。
それが、古典の世界(万葉集の時代)では、逆になる。確か学生時代にそう習った。つまり、「相手」が「自分」を恋しいと思っているから、「夢の中まで会いに来た」ということ。「Aくん」の夢を見たら、「Aくん」が「私」を想っていることになるのだ。
あの時代と現代とでは「夢」というもの自体の解釈が、全く違うのかもしれないとも思う。心理学や科学の概念もないのだから。なんというか、自分の心理を反映したものではなく、「夢」という「現実」とは別のもう1つの世界があって、眠っているとそちらへ行く。うまくいえないけれど、そんな感覚に近いのかなと思っている。
私は研究者ではないので、そのへんの真偽はさておき(ツッコまないでね)、私はこの「相手が想ってくれているから夢に見る」という考え方がとても好きだ。
今でもよく思うのだ。
母の夢を見れば、ああ、母がまた私のことを心配してくれているのかな。今日電話してみよう、とか。
夫の夢を見れば、ちゃんと夫は私のことを大事に思ってくれているのだな、ありがとう、とか。
もう何年も会っていない人の夢を見れば、もしかしたら何かの拍子に、久しぶりに私のことを思い出してくれていたのかもしれない。ちょっと連絡してみようかな、とか。
そんなふうに夢をとらえると、なんだか現実でも相手との距離が縮まったようで、うれしくなる。
ちなみに、小説の中の「好きな人の夢に出られる方法」は、その場では答えは出なかったのだが、物語の最後でちゃんと夢に出る。この場合は、片方ではなく双方の想いが通じて、という感じだった。
さあ、私は今晩いろんな人のことを想って、あちこちの夢に登場してやろうかな(笑)。