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「書くこと」がいつも私を救ってくれた

心が折れそうになっていた。
なんだか疲れていた。
こう書くと誤解を招きそうで怖いけれど、少し生きることが辛くなっていた。
でも、死にたいわけじゃない。
たぶん「病人あるある」じゃないのかな、と思う。
「病気を苦にして自殺」という話を聞いたことがあり、昔はその理由がわからなかったけれど、今はよくわかる。
「苦にして」というより、息切れしてしまうのだ。
生きる気力がなくなる、とでもいうのか。
しんどい日、痛みのある日が3日以上続くと、メンタルがやられてしまう。

ちょっとしたことで責められている気持ちになって、わーっとキレたり、情緒不安定になって、じっとしているだけで涙が出てきたり。

夫に「しんどそうやなぁ」と言われるだけでキレる。
「しんどいよ!ずーっとしんどいよ!しんどくない時なんてないよ!!」
その後は悲しくなって、自分が嫌になって、シクシク泣いてしまう。

何もできない自分が嫌になる。
何のために生きてたんだっけ?と思う。
私はガンを治すために生きているのか。
毎日大量の薬を飲んで、1日3回血圧を測って、3週間に2回検査をして、3週間に1回入院して点滴して、なんとか生きている。

気持ちが前を向かないと、あれ?どうしたんだろうと不安になる。

「なにがなんでも生きるんだ」という、あの強い気持ちはどこに行ってしまったんだろう。
怖いなぁ。
気持ちが弱ると、あっという間に死神に連れて行かれそうだ。
この恐怖と不安は、病気の人にしかわからないのだろう、きっと。

もうどうやって前を向いていたのか、忘れてしまっていた。

そうしたら、今日、思い出させてくれた人がいた。
本に囲まれていると幸せだという、くばさんだ。相互フォローさせてもらっている。
私の記事を引用してくださっている通知があったので、見に行ってみた。
その記事がこちらだ。

化学物質過敏症を発症してしまい、大好きな紙の本が読めなくなってしまったくばさん。失望してnoteからも遠ざかっていたが、私のある記事を読んで、こう思うようになってくれたという。

できなくなったことより、たくさんある「できること」を考えていこうと思ったから。私も前向きに生きていきたい。

私は、引用してくださっていた自分の記事を慌てて読んだ。
どうやって前を向いていたんだっけ?と、その答えが知りたくて。
それこそ、今の私自身が知りたいことだった。

読みながら、泣いていた。
あの時の自分の気持ちを思い出して。
おかしな話だけれど、気がついたら、自分が書いたものに、自分が励まされていた。

また「書くこと」に救われた、と思った。
それに、私が書いたもので、くばさんを少し元気づけることもできた。
それが何よりもうれしかった。
生きる意味があった、と思った。
もう一度、前を向いて生きていこうと自然に思えた。
私は、まだまだ書いていくんだった。

「なぜ書くのか」と問われたら、どう答えるだろうかと考えたことがある。
「書くことが好きだから」とか「自分が書いたものが誰かの暗い足元を照らす光になれたらいいと思ったから」とか、書くことに対していろいろな想いはある。
でも、真の答えは違った。

なぜ書くのか。
その問いに対する答えは、「書かずにはいられないから」だ。

そんな答えにたどり着いたとき、ふと20代の頃によく読んでいたリルケの「若き詩人への手紙」を思い出し、久しぶりに本棚から取り出してみた。
いつでもすぐに読めるようにと、栞を挟んでいるページを開く。

自らの内へおはいりなさい。
あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐってください。
それがあなたの心の最も深い所に根を張っているかどうかをしらべてごらんなさい。
もしもあなたが書くことを止められたら、死ななければならないかどうか、自分自身に告白してください。
何よりもまず、あなたの夜の最もしずかな時刻に、自分自身に尋ねてごらんなさい、私は書かなければならないかと。
深い答えを求めて自己の内へ内へと掘り下げてごらんなさい。
そしてもしこの答えが肯定的であるならば、もしあなたが力強い単純な一語、「私は書かなければならぬ」をもって、あの真剣な問いに答えることができるならば、そのときはあなたの生涯をこの必然にしたがって打ち立ててください。

このページを、20代の私は一体何度読み返したことだろう。
そのたびに自分に問いかけてきた。
私は書かなければならないか、と。書くことを止められたら、死ななければならないか、と。
いつも答えは「私は書かなければならぬ」だった。
だから、生涯を書くことに費やしてきた。
そして、救われ、恢復してきたのだ。

今日のくばさんのように、自分が書いたものが誰かの役に立つことは、とてもうれしくありがたいけれど、それはあくまでも結果であって、書く目的ではない。
仕事なら報酬が発生するので、誰かの役に立たなければならないし、それを目的にしなければ意味がないけれど。

ただこうして1円にもならないものを書く時には、力強い単純な一語、「私は書かなければならぬ」をもって、書いているだけだ。心のままに。
とてもシンプルな行為だ。

たとえば今日のこの記事は、読んだ人に心配をかけてしまうかもしれない。
こんなネガティブな想いや苦しんでいる姿は書かないほうがいいのかもしれない。
でも、書かずにはいられない。
こうして書くことで、私は恢復するから。

それに、また未来の私が、この記事を読んで救われる日がくるはず。
病気の苦しみで生きることに疲れて、恐怖と不安に襲われて、情緒不安定に陥って、前を向くことを忘れても、きっと「私」が思い出させてくれる。
今日の私のように。

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