同性を好きになることに理由を求められる性的マイノリティ
この記事は以下の記事の派生である。
■異性愛者が考える「同性を好きになる理由」
異性愛者は、異性を好きになる時に「なぜ異性を好きなのか?」とはいちいち考えないだろう。だが、同性愛者はなぜか「なぜ同性を好きなのか?」「なぜ恋愛感情を抱くのか?」「なぜ性的欲求を抱くのか?」と、ことごとく相手を好きになることに疑問を持たれ、人を好きになる理由が求められる。
理解できない異性愛者は「異性にトラウマがあるからだろう」とか「母子家庭や父子家庭で育ったからだろう」「心の中は異性だからだろう」などと推測するが、それらはかなり単純化された強引なこじつけである。
■パンセクシュアル(バイセクシュアル)の私の視点
性別にこだわらず異性も同性も好きになるパンセクシュアルの自分にしてみれば、異性と好きになるときと同性を好きになるときの感覚は全く同じだ。
自分の中ではそれが当たり前で、ごく自然な感情で、何も違和感がなく、一切の矛盾が生じない。相手をどちらかの性別の代わりにしたり性自認を否定したりもしない。男性を好きな時は男性的な相手だから好きだし、女性を好きな時は女性的な相手だから好きだ。中性的な男性を中性的な男性だから好きになることもあった。自分の中ではどれも同時に存在する感情だ。
人を好きになることに本来理由は必要ないし、そこに異性も同性も関係ない。
同性愛者は異性愛者と何も違わない。ただ選ぶ性別が違うだけだ。
それ以外はまるきり異性愛者と同じで、同じように人を好きになる。それは理屈ではないし、自分の意思で変更することも難しい。
■他人の性的指向を侵害する権利は誰にもない
人がわからないこと、理解できないことに対して本能的に疑問や違和感や不安や恐怖を抱くことは生物としてごく自然な感覚だ。
ただし、相手を選ばずにそれを尋ねたり、自分の嫌悪感を押しつけるのは人として無神経な行動だ。
わからないなら今の時代、いくらでもネットで当事者の声を探して理解しようと努めることはできるだろう。
異性愛者は異性が好きであるというだけで嫌悪されたり、好奇の目で見られたりすることはないだろう。だがもし異性愛が少数の世界だったら、今の性的マイノリティと同じ目に遭うのである。
性的指向を変えられるのならば、同性愛者がわざわざ差別され生きづらい人生を選ぶわけがない。同性が好きであるというだけで世間に白い目で見られ、時には中傷され、物理的に攻撃され、最悪の場合殺されることもある。国や思想によっては社会的につまはじきにされる。
だから多くの同性愛者は長いあいだ外部からの弾圧と、自分自身の内部からの自己否定で何重もの板挟みに遭い苦しんできた。
■性的指向を意図的に変えることなどできない
性的指向をマジョリティに合わせて欲しい人達が世の中には一定数いる。その人達は赤の他人に対しても「それはおかしい」と考えを改めさせようとするが、マイノリティ当事者の意思ではどうにもならないことを矯正することは現実的ではない。
これは性的指向の話に限らないが、私の経験上、同じ言語を介していても別の惑星の生物くらいに意識に隔たりを感じる人がいる。無理にその相手に理解させようとするよりも、こちらが理解しようと歩み寄る方が結局ストレスが少ないと私は気づいた。
よく言われるが、他人を変えるよりも自分の考えを変えた方が簡単だ。意識や視点を変えるだけで生きやすくなる問題は意外とある。
■新しい世代に願ってやまないこと
私より若い世代のセクシャルマイノリティの人たちには、私のように拗らせて欲しくない。私のように自分の性的指向を否定し続けたり、理解されないことを「仕方がない」と割り切れるようになって痛みを感じなくなったり、自分の本心を歪めて欲しくない。
長い間弾圧され苦しめられた人々とその原因を作った社会によって、現在の複雑な状況がある。しかし人を好きになること自体はいたってシンプルだ。わざわざ人の好き嫌いを判定しても何もいいことはない。
それが自分にとっての正義だとしても、相手には相手の中の正義がある。自分の中だけの「正義」や「正しさ」や「正解」を他人に押しつけることに、はたしてどれだけの意味があるのだろうか。
自分の気持ちをそのまま受け入れ、他人の気持ちのあり方もありのまま受け入れ、少しでも肯定できる社会で生きていけるように、今後は徐々になっていくことを痛切に願ってやまない。