トランスジェンダーになりたい少女たちを読んで。
ひと昔前にジェンダー論とジェンダーフリーについて学んだことがある。
それはとても興味深かったけれど、まさに自分の周囲に”存在”しないとわからないと思う。
周囲に”そういう人間”と表すがいる私にとっては他人事とは思えない。
最近ジェンダーフリーを推奨が目覚ましいものがあるが、実際に性差というものがあり、それをなんとかうまくやっていける時はいいのだが、何せ、人間が多数いればいただけの考え方の違いもあるので対立も起きるのだが、昨今の”トランスジェンダー”の勢いに訝しげに思っていることがある。
以前は染色体の違いということで、そういう人間もいてもいいし。人体にはまだまだ神秘が秘められているのか道徳的に”コピー”された人間が産まれることはないのかはその道の専門家ではないのでわからない、なおかついてもおかしくないだろうとは思っていた。
しかし、最近の”ジェンダー”論には不可解なことが多い。心がその性ではない、私は、その性だということも本人の自由だし、別に他人に認められなければ自分を保てないなんて、そんな貧弱な意志なら、別に公表する必要がないと感じている。
海外で流行ったことが少し遅れて日本で流行るとか日本で流行ったことが海外のとある国で流行るなんてことはよくあるが、最近はインターネットの常時接続が当たり前で一人一つデバイスを持って24時間繋がっているなんてことは当たり前の世の中である。
そのため、海外で起こったことのタイムラグは短くなってくるが、果たして海外で起きている全てのことを日本でも全て導入しなければならないなんてこともないのであった。
これを読んでいる間に、ネット上で昔あった生物学上は女という表現を思い出す。
腐アンチ(※これはほとんどが男性だと思われるが女性に構ってほしいが、まともな女性は構ってくれないため、わざわざ目の前に虫など嫌がらせをして泣かせて喜んでいるような幼稚な心理なのだが、いまだ存在している。
なお、まともな感性の人間は、他人の性生活などを話題にはしない。)
にも似ている気がしていた。
そして昔からいるのだ。一人称を”俺”とし、男性の服を好み男性のように振る舞い、○○ちゃんかわいいなど俺の彼女などとする。なお、これは厨二病と呼ばれ、少しの間熱病に魘されるかのように熱中して、その後、黒歴史となることが多いのだが。まぁ大抵の人間には嫌われる。オタクに多かった。
だが、最近の所謂”俺女”と呼ばれる人間達はあまり存在せず、”トランスジェンダー”と名を変えているように思えている。
この本の事例を見ると、実にそれと近い気はした。
”俺女”はまぁそこまで、他人に害はない。何しろただの真似事にしか過ぎず、20も過ぎれば、一般の社会人として暮らしていることが大半なのだ。
(これは、一人称が”俺”なだけで害がない人間は”俺女”とは言われない。公共の場、社会的な場でなければ一人称などどうでもいいと私個人は思っている。)
そして、これは、よくある病み系とも関連が深い。俺女と病み系は親和性が深く交友関係も深まっていくことも多い。
病み系とは、ネット上で、リスカ、ODなどで他人の気を引いて構ってもらわないと自殺などをしかねないとされる人々だ。
精神障害を持つことも多いが、普通に薬を飲んで日常生活を営んでいこうとする人間からは冷たい視線を浴びせられることが多い。(正直なところ、私は精神障害者ではあるが、一緒にされたくないのだった。)
今まではアングラとして存在していたが、表立ってきたのだった。
私にとってはそんな感覚なのだが、違う人は違うで構わない。
乱暴にまとめるとするなら、変身願望なのだと思う。
自分以外の何か特別な何かを得たいのだと思う。まぁそれが今まではよくある厨二病としてだった。
だがしかし、”トランスジェンダー”として生きたいとなると話が変わってくる。
自分の身体にメスや薬を投与して自分の望む姿になりたいというのも自由である。整形手術などもこれに含まれるだろうが、問題は、未成年者が保護者の許可とか理解を得ない上で本人の意思だけで進められていける問題である。
今まで、順調に進んでいる生体反応を無視し、薬や手術などで、変えることはできるらしい。
しかし、様々な問題がある。身体に傷や障害などが残る。
女性の場合は、不妊や子宮がんなども発生してくる。
私自身は子供がいないし、結婚する予定がないので問題ないといえばそうだがもし、その熱に魘されて手術をした場合、元に戻りたいと考えてもなかなか元の身体に戻れるわけではない。
生命の身体とは実にうまくできているとは思う。もし、この信号を止めてしまったら、あるいは止まってしまっても、なんとか生きていくことができる。しかし、パソコンなどの機械は部品を変えればなんとか使い続けることができるが人間の身体の場合、老朽化が進んだから替えることができないと同じように移植手術をしたところで100%元に戻れるという保証はない。
思春期の多感な年ごろをSNSや動画サイトなどで、私はこうかもしれないと思い込み、自分の問題である鬱や不安な感情をこれすれば治ると短絡的思考で行ってしまうことに問題があるのだと思う。
変身願望、よく題材とされるしとても面白いと思う読み物としては。
ある日、私は、こうであると告白することで、いきなりどこの知らない人間に褒められ、よく言ったあなたは勇敢だと言われ、祀り上げられる。
不思議だと思う、そして何か役に立つことはありませんか。と。
親を出し抜き、監視を逃れ、インターネット上の”仲間”を実の家族とする。
それは少しおかしくないかと、私もSNSで交流はするし、疑問に思ったら聞くなどはするが、それを思っても全ては自分の責任の元に行うことで、インターネット上に顔や名前を出すことも個人の責任が伴うのだが。
未成年がリスクなしに何も考えずにやるにはあまりに悪い大人も近づいてくることが多いことなどがある。
未成年者を食い物にし、自分の思うままに妙な考えを吹き込めば、目を輝かせて、自分もそうなりたいと願うのだろうか。
カルト宗教に近い。という感想を得た。まず、目標を他のコミュニティから引き離し、自分達に依存させる。そして、アドバイスを自分達に有利なものしか与えず、リスクを説明しない。問題だと思う。これが、ただの無資格ではなく、医師カウンセラーなどの人間が行っているだと思うとつくづく自由とはルールのもとに成り立ってないと無法化するなと思った。
これが日本でも起きているかと思うと寒気がした。
現在のパリオリンピックでも、これは男性として、出場する必要があるのではと思った。全ての人間が穏やかに生きるのは大変だと思うが、決して自分のことは自分で認めていれば、別に社会に認められる必要はないのではないかというのが私の考えである。