親切なだけでは好かれないわけ
注記:本記事は何らかの“根拠”や“実績”に基づくものではありません。詳しくは別記事「提案型無根拠記事のススメ」をご覧ください。
「親切」であることは「優しい」ことと似通っています。でも「親切」=「優しい」ではなくて、領域的な意味で「親切」<「優しい」だと思います。つまり「優しい」ことは「親切」であることを内包しているものの、それ以外の要素も含んでいるのです。
「親切」には含まれない「優しい」ことの要素とはある種の「繊細な配慮」ができることです。「繊細な配慮」ができない人は「親切」で「善意ある人」と認められることがあったとしてもそれだけでは「優しい人」とは認められない場合があるのです。「繊細な配慮」ができるか否かは広い意味で個人のプライバシーに関わる情報の扱い方によって分かります。
たとえば多くの人にとって自分の性別はプライバシー情報に含めません。そのような人は見ず知らずの人に突然見た目だけで「男性」または「女性」として扱われても、間違えない限り、抗議することはまずありません。しかし性別不合状態の一部の人にとっては外見で自分の性別を他人から判別されること自体に何がしらの抵抗感を示す場合があります。その場合、その人にとって自分の性別は他人に知られたくないプライバシー情報の一つになっています。
またある人にとっては自分の出身地は誰に知られても別段嫌ではないけれど、別の人にとってはそれは絶対的に隠したいことだったりします。前者にととって出身地はプライバシー情報として意識されていませんが後者にとっては紛れもないプライバシー情報になっているわけです。
このように何をプライバシーの範囲の中に含めるか否かは各個人に決定権があると言えます。プライバシーの範囲は、ある程度社会規範によって決められている場合もあります。しかし究極的には個々人に自分のプライバシーの範囲について決定権があります。
しかし実は「繊細な配慮」は単にプライバシーの範囲が各個人の自己決定に委ねられていることを認識して行動できるだけではまだ不完全なのです。
たとえばある人の自分自身の情報のうち、兄弟姉妹には知られているが両親には知られていない情報かあって、それを両親には知られたくない場合があるでしょう。その場合、その情報は兄弟姉妹に対してはプライバシー情報にはなっていませんが両親に対してはプライバシー情報になっているわけです。
あるいは親友として付き合っている人が二人いて一方の友達には知られた情報でももう一人の友達には秘密になっている情報ということもあるでしょう。また別の情報に関しては逆に前者の友達は知らせていなくて、後者の友達には打ち明けている情報となっているケースもあるはずです。そしていずれの情報についても家族の誰もが知らないということもあり得ます。
このように付き合う相手との関係によってプライバシーの範囲は異なってくるのです。単に親しい人ならより多くの濃いプライバシー情報を持っていてそうでなければ少しで薄いプライバシー情報しか持っていないという単純なことでもないわけです。全体として見ればそういう傾向があるとしても、です。
またプライバシー情報とは単に当人が秘密にしたい、と公言できる情報だけを指すのではないことにも注意が必要です。家族のつきあいはもちろん、友達付き合い、職場の付き合いによっても、それぞれの場所でプライバシー情報は蓄積されていくだけでなく、当人の言動や“事件”によって日々発生しているものです。そして当人はそのすべての情報を精査してある情報に関しては秘密にするように言明して周囲に依頼しているわけではありません。実際には他の人には「知られたくない」と内心で思っていても明確に誰かに口止めしているわけでない、微妙な情報というのは必ずあるはずです。そのような情報については当人が望むか望まないかに拠らず、プライベートな内容のものか否かを事実上、他人に解釈を委ねていることがあります。
そこでそれを安易に他人にそれを漏らさないようにしたり、それを知ってしまった後に当人に向けて話題にする場合でも、「本当は他人に知られたくないことかも」という前提で注意深く当人の意向を確認する「繊細な配慮」を発揮できる人が「優しい人」なのです。
そもそもプライバシーとは単に特定の情報を他人に知られないようにする権利というだけではありません。その情報に関して良くも悪くも他人に評価されることを拒む権利でもあるのです。(もちろん他人の権利を侵害しない範囲内においてですが。)そしてそれが重要なのはそのことによってその人の尊厳に関わる自由を確保できるようになるからです。
つまり「優しい人」とはこの意味で他人の自由を尊重できる人のことに他なりません。そして本当に「優しい人」は逆に他人から誰にも打ち明けられないようなことを敢えて告白されてその他人から評価を求められることさえあります。「誰にも打ち明けられないようなこと」はたいていの場合、好き好んで自分の中に抱え込むものではありません。そのような「抱え込み」を続けるのは苦痛を伴うので、信用できる「優しい人」に打ち明けることによって苦痛の緩和を得ようとするのです。
冒頭の件に話を戻すと「親切」で「善意ある」人はたいてい「頼りになる」人でもあります。しかし好かれるとは限りません。「親切」で「善意ある」人は自分の嫌がることは他人に強要はしません。そのような意味ではいい人です。しかしそのような人でも「自分にとって何とも思わないことは他人にとってもなんとも思わないはずだ」と無自覚に思い込んでいる場合があるのです。しかしそれは間違った認識です。「優しい人」と思われるためには「自分では何でもないことがある他人にとっては苦痛なのかもしれない」という想像力が必要なのです。つまり悪意なく、相手が苦痛に思うことを自分が求めていることがあるのです。
そして相手はその苦痛に思っていることを伝えられなくて悩んでいる場合もあります。「親切」で「善意ある」人と分かっているからこそ、なかなかその苦痛を打ち明けることをためらってしまうのです。
「あれこれ親切にしてあげているはずなのに、いまいち好かれていないな」と思える相手がいるなら、相手にとって自分は「親切な人」であっても「優しい人」になっていないかもしれない、という観点で自分の言動を見直してみる必要があるかもしれません。
ただし「何を苦痛に思うか」ということ自体がプライバシーに関わることとして当人が判断している場合は事は簡単ではありません。「なんでも相談して」と気軽に言う人はいます。しかし悩みの種がプライバシーに関わることなら、その人が当人にとって信用できる「優しい人」になっていなければカミングアウトの強要にしかならないのですから。