バッサリわかる!他人判別法 と『心のメカニズム』
こうなってから色々調べるうちに初めて分かったことだけど
『心のメカニズムは現在までに厳密に解明されていない』らしい。
あー、やっぱりそうなんだ、と思った。
自分はずっと母親のことを治してあげたいと思っていたが
高校2年の時に「人の心なんか分かりやしない」と
「心」という「目に見えない不確実なモノ」についてバッサリと切り捨て
それ以降、「心」を重視する人間をことごとく軽蔑してきた。
そんな自分がどこで他人を判断してきたか。
もう本当に分かりやすいぐらいに振り切っていて
学問であれば「その精通度」
仕事であれば「結果」
芸術であれば「その作品の完成度・独創性」
これだけで他人を判断する。
よく
「あの人は勉強は出来るけど性格がちょっと・・・」だの
「あの人は仕事が出来るけど人柄がちょっと・・・」だの
「あの人はいい作品作るけど人間性がちょっと・・・」だの
自分からすればわけのわからないことを言う人間が多いけど
「心のメカニズムが解明されていない」以上
心だのそれに付随する人間性だので判断する方がおかしな話で
それ以外のところで判断するほうが妥当な判断だと思っている。
もっと言うと
「心」だの「人間性」だの目に見えないもので判断するというのは
ある種の宗教思想で神秘主義だとすら思っている。
社会の中で生きているんだから
学生という領域なら学問で突き抜けた奴がいいわけで
仕事という領域なら仕事の結果や成果を残した奴がいいわけで
芸術という領域ならその作品の完成度や独創性が高い奴がいい。
たったこれだけだと思う。
「求められるモノを、求められる場所で、最高の状態でやる」
至極当たり前の話。
なので、自分からすれば
突出した仕事の結果、あまりにも独創的な作品に対して
「心」だの「人間性」だの求められる方が理不尽だと思っている。
昔も今もしょっちゅうこの類のことを言われていて
その度に「結果や作品と人間性はどう関係するのか?」と
言ってきたヤツに面等向かってそう聞いていた。
今までまともに答えた人間は一人もいない。全員沈黙する。
それが答えだと思う。
それに、
どんな分野もそうだけど突き抜けた結果や作品を残した人間というのは
普通の人間ではない。
病気だの障害云々の話ではなく
そもそも考えていることが根本的に違うというのと
今の現在もふまえながら常に普通の人間の先を行っている。
先を行き過ぎている人間すらいる。
だから普通の人間にその価値観や感覚がわかるはずがない。
その「わからない」というのを
「心」だの「人間性」のせいにしようとしているだけの話で
小賢しい普通の人間の悪巧みにしか見えない。
自分は昔から「嫉妬」という感情を持たない人間なので
嫉妬する人間の気持ちは一切わからない。
わけのわからない「嫉妬」について考える暇があるなら
自分の事を高めることに使いたいとすら常に思っている。
さらに
普通の人間ではないので当然「普通の人間のこと」はわからない。
しかし普通の人間が「わからない」といって
「心」だの「人間性」だののせいにするところを
突き抜けた人間はそういうことをしない。
理由は
「わかるはずがないから何かのせいにするのが無駄だと思っている」から。
多かれ少なかれ、ホンモノの突き抜けた人間というのは
小さな時から差別や偏見の目で見られる体験を必ずしている。
学生時代に一人だけ飛び抜けて成績が優秀だったりIQが高すぎる奴なんかは
あまりにも突き抜けすぎて周りの子供と話が合わないことがよくある。
当たり前のように話しているつもりなのに周りの子供がそれを理解できない。
たったそれだけで「アイツは頭が良すぎる」だの「宇宙人」だのいわれ
差別や偏見の目でみられることが本当によくある。
そこで突き抜けた人間はその場所では自分を出さないようになってしまう。
「あぁ、ここでは理解してもらえないんだな」すぐにそう悟る。
そして自然と頭の中で平均値をとるような言葉を選ぶようになる。
こんな経験をしている突き抜けた学生は結構いるんじゃないかと思う。
その時「この場所で共感を求めても無駄だ」と割り切り
こいつらはどうするかというと、
ひたすらに自分を高めることをする。
「共感を求められない以上、何かのせいにするのは無駄だ」
「それよりも共感してくれる場所に行けるようにしたほうがずっといい」
こんなことを考えている。
だからますます突き抜けて、その先行った場所でやっと共感と出会う。
ある意味成績が飛び抜けていい奴とIQがやたら高い奴というのは潔いい。
差別や偏見を体験することにより「共感できないことがある」のを知っているから。
世の中にはやたらと「共感を求める」人間がいる。
個人的に「共感」とはその人の考えを理解した上で同感することで
決してその人と同化することではないと思っている。
なのであくまでも自分は自分、他人は他人でしかないし
全く違わず考えを持っているほうが気持ちが悪いとすら思う。
しかし世の中には
他人を自分と同化させるために「共感」を求める人間がいる。
もう完全に「他者支配」の発想で
「あーエセ支配者いるわー。こいつヤバイわー。」とか
「コイツヤバくね?他人の境界浸食しすぎてね?」とか
「あーだこーだ言ってるけどホントは自分が教祖にでもなりたいんでしょ?」とか
そういうエセを見るたびに個人的には心底むちゃくちゃバカにしている。
エセだとかニセモノというのは非常にわかりやすく
話せば話すほどボロが出てきて
だんだんと言ってる内容が支離滅裂になってくるのが特徴。
自分は延々と終わりなくディスカッションを続けることが出来るぐらい
言語化について鍛え上げているので支離滅裂になった時点で断定している。
また、自分は元他者支配者かつ今まで出会った人間の数が億単位なので
ハンパじゃなく人を見る目だけは冴えている。
「心」だの「人間性」だの「目に見えない不確実なモノ」を
自分に同化させようとするのは、非常に危険な他者支配の前兆である。
個人的に「他人判別法」における二次判断として
「成績・結果・作品が良いものである」を大前提とした上で
「コイツが本物かニセモノか」を判別することを二次判断とし
ひとつの基準として「共感を求めるかどうか」をおいている。
上のように他人を同化させるために共感を求める人間というのは
自分は完全にニセモノだと思っている。
いくら肩書があろうと資格があろうと大前提があってもニセモノである。
またなんらか作品を出す分野においては
全ての人間に共感されることなど不可能だと知っていないとウソだと思うし
作品を世に送り出したあとで解説することはナンセンスだとも思っている。
作品ですべてを伝えられないのならば単純に熟練度がないだけとすら思う。
二次判断についてはいくつか基準があるけれど
「共感を求めるかどうか」というのは結構大事にしている。
自分は
「自己愛性パーソナリティ障害らしい」かなり偏った考えや価値観を持っているし
「多重人格らしい」不安定さがある。
それでいいと思っている。
今現在『心のメカニズムが厳密には解明されていない』以上
精神疾患や精神障害の名称というのはあくまでも
「過去に同じような傾向のあった人間の総称」として付けてられていて
その疾患や障害の内容というのは
「とりあえず総称した人間の過去にあった言動の傾向」として捉えられ
判断されているにすぎない。
個人的にはそう思っている。
なので、すべて「世論と極めて近い主観的なもの」だと思っている。
また、「心」とは心臓にあるものではなく「脳」にあるので
人体について学んでいる医者の言う事に間違いはないとも思っている。
たとえカウンセリング技術の不足があろうが
大前提として人間のカラダについて医学を学んでいるということと
医療行為の手段として用いられる薬についての正確な知識があることは確か。
もしも医学や薬学を学んでいない人間が投薬治療について発言をしても
そこに信憑性はないと個人的には思っている。
さらに、「心」が「脳」にあるのならば
やはり医学ベースで『心のメカニズムの解明』が行われなければおかしいとすら思う。
カウンセリングというのはあくまでも「緩和技術」でしかなく
いくらその方法論を増やしたところで、心のメカニズムが分からない以上は
そもそもの定義自体が出来ないわけなので本末転倒だとも思う。
なので医学ベースでの『心のメカニズム解明』が一番の近道だし
一番確実性が高く信頼性が高いと思っている。
自分自身は医者ではないので一般的な解明は医者に任せて
自分は数学と物理の知識を応用することで『自分の証明』さえ出来れば
それでいいと思っている。
よく「宗教に救われなかった人間が科学に走る」のようなことをいうけど
その通りだと思う。
そんな目に見えないモノ、自分には信じるに値しない。
拙い文章お読みいただきありがとうございました。
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