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ローズクォーツ

 私は、その日まで妻の異変に気づかなかった。

 外資の投資会社に勤めていた私は、当時、日本市場の伸張に意欲的だった取締役の判断で、東京支社の立ち上げを任された。栄転とは聞いていたが、そこはスタッフが10名ほどの小さな組織。支社長とは名ばかりで、電話番から掃除、果ては、ビジターの通訳まで切り盛りする”何でも屋”だ。とは言え、スタッフには恵まれていた。彼らのモチベーションはすこぶる高く、私たちは発足メンバーとして固い絆で結ばれていた。私の妻もその中の一人だった。

 開業したての支社はまさに極限状態。後発が生き馬の目を抜く業界で勝ち残るのは想像以上に厳しかった。仕事は不眠不休が常態化して、メンバー全員が慢性的に疲労困憊。今なら正真正銘のブラック企業だ。ところが、彼女はそんな厳しい状況下でも笑顔を絶やさず、難しい案件を自ら志願しては片付けていった。優しい性格に不釣り合いな行動力から、付いたあだ名は東京のジャンヌだった。

 その甲斐あってか、私たちは徐々に有力投資家の信用を獲得することに成功し、支社の業績は飛躍的に伸びていった。苦労と危険を共に過ごした男女が恋に落ちるのは良く知られているが、私の場合は、彼女に初めて会った日からそうなる予感のようなものがあった。

 私たちは結婚し、郊外の一戸建で新しい生活を始めた。彼女が丹精した庭では四季の花が咲き、キッチンからは美味しい匂いが絶えなかった。そして、あれほど打ちこんでいた仕事を辞めて家に入った。有能な妻の引退を惜しむ声は大きく、本社から退職の再考を説得に来たほどだった。やがて、妻に良く似た可愛い娘が産まれた。その娘が幼稚園に入ると、妻は自分のクルマで園への送迎を行った。

 日曜日は妻と娘が二人がかりで洗車するのが決まりだ。手伝おうとすると、
「パパはいいの! これはママとわたしの大切なおクルマなんだから」
 と娘が抗議する。
 妻は妻で「そうよぉ、二人だけで洗うのよねー」と娘に賛同する。
 やれやれと呟いたが、私は自分の手の中にある愛しい光景に目を細めていた。

 しかし、会社の成長と比例するように私の責務も桁違いに大きくなった。経済危機と先行きの見えない不安は、私の肩に重くのしかかる。 自ずと休日出勤は増え、娘の顔は寝顔だけという日々が続いた。中でも最も私を苦しめたものは、損失を被った投資家の存在だった。投資は自己責任が原則だとしても、莫大な損失を出した顧客の中には私を良く思わない人もいた。「殺してやる」と激しい恨みすら買った覚えもある。それでもやってこれたのは、私を気遣ってくれる妻がいたからだ。

 そして、その日は何の前触れもなくやってきた。

「アナタ、行ってきます。久しぶりの有給なんだから、ゆっくりしていてね」
「ああ、分かった。そうさせてもらうよ」
「パパぁ、いってきま~す。おりこうでいなきゃだめですよ~」
「承知つかまつった。お姫さまのとの約束とあらば、この命に代えて!」
 私は、はしゃぎ声をあげる愛娘を高く抱きあげた。

 出掛ける二人をポーチから見送り、やれやれと、ソファーに腰を降ろした時だった。私はそれに気が付いた。テーブルの上に置き忘れた妻のスマホだった。

「まったく、これが無かったら待ち合わせに困るだろう」
 娘を幼稚園へ送った後で、学生時代の友人と会う約束だと妻は言っていた。計画的で、とても几帳面なわりに、変なところがうっかりしている。
「今なら、娘を預けたタイミングでつかまえられそうだ」
 苦笑した私は、ローズクォーツのストラップがついたスマホをポケットに入れて、ガレージへ向かった。

 ところが、私の計画は早くも目算が狂ってしまった。近所で始まった水道工事のせいだ。悪いことに、妻がどこで待ち合わせするのか聞いてはいない。

「まずいな、幼稚園で捕まえられないと渡せないぞ……」

 幼稚園への道は、少し遠回りでも大通りを使うが、私はロスを取り戻すため、滅多に通らない抜け道で先を急いだ。信号の向こう側に娘の幼稚園が見えてくる。園の前には、妻の白いSUVが停まっていた。遅れた分は何とか取り戻せたようだ。

「良かった!」と胸をなで下ろした瞬間、あろうことか、妻のクルマが走り出してしまった。タイミングが悪いことに、信号で止められた私と妻の間には数台のクルマを挟んでいる。これではクラクションを鳴らして知らせるわけにはいかない。

「待ち合わせ場所まで、ついて行くしかなさそうだ」

 焦っても仕方がない。私は妻のクルマを見失わないよう注意しながらクルマを走らせた。しかし、これはどこから見ても、妻のクルマを尾行しているかのようだ。いかにも古いサスペンスドラマのようでおかしくなる。

 妻のクルマは、駅前にあるホテルの地下駐車場へ入って行った。都市部で開業が続いている外資系ブランドホテルの攻勢は、自粛やインバウンド需要が減った今もとどまることを知らない。最近開業した豪華なこのホテルも、そのうちの一つだ。

 待ち合わせは当然ロビーだろう。見通しの利かない地下駐車場よりも見つけられる可能性は高い。クルマを停めた私は空いているエレベーターに駆け込み、迷わずロビー階のボタンを押した。

 チェックアウト時間が過ぎたのか、それと分かる宿泊客の数は少なかった。それでも、商談や待ち合わせの人々が行き交うロビーは、ホテル独特の華やいだ空気が漂っている。

 そんな中に妻の姿はあった。離れていても直ぐに分かる。友達を探しているのだろう、少し緊張した面持ちで辺りを見ている。 それにしても、妻のことを夫という視点以外から眺めるという経験は初めてだ。余所行きだからかもしれないが、それを差し引いても妻は美しかった。出会った時よりもずっと輝いている。

 その時、妻の顔がぱっと輝いた。右肘を軽く曲げて「ココよ」と手を振っている。その仕草が何とも言えず可愛くて、思わず抱きしめたくなる。
 しかし、駆け寄ろうとした私の足が止まった。妻が認めたのはもちろん私ではなく、待ち合わせた友人だったからだが、それは女性ではなく……男だった。
 妻が通ったのは、中学から大学まで続く女子校だ。

 私は咄嗟に柱の陰に身を隠して様子を窺った。妻はスーツ姿の男に軽く会釈すると、心から嬉しそうに笑った。それは、今まで見たことがない笑顔だった。妻は、待ち焦がれたと言わんばかりに知らない男の左腕をとって歩き出した。

「誰なんだ」
 頭が真っ白になった。動悸が激しく、顔は火が出るように熱い。それなのに背筋だけは冷たく凍り、恐ろしいものを見たように全身が総毛だっている。

「ダメだ、もっと冷静になれ……」
 せめて状況だけでも確認しなければならない。私は急いで二人のあとを追った。

 ロビーからラウンジに移動した二人は、楽しそうに話していた。時折、紅茶を口に運び、さりげなくカップについたルージュを指でぬぐう妻。席を立つほんの少し前、テーブルの上に置いた男性の手に自分の手を重ねていた。ラウンジを出た二人はまっすぐエレベーターに向かった。そして、二人を乗せたエレベーターのランプは、プレジデンシャルルームのあるフロアーで止まった。

 どうやってホテルを出て、どこをどう歩いたのか何も覚えていない。自分のクルマをホテルに停めたままなことさえ忘れていた。

「……知らなかった」
 結婚してからというもの、仕事にかまけた私は妻に甘えきっていた。そして、考えてみれば、普段、妻が何を考え、何を思っていたか全く知らなかった。好きな映画のこと、良く聴く音楽、好きな本は、育てている花の名前は? 必死に考えてみてが、どれも思いつかない。私は愕然とした。

「私は今まで、妻の何を見ていたんだ」

 気がつくと、雨が降り出していた。傘など持っていなかった。辺りを見渡すと、明かりの付いている小さなビルがあった。私はそこへ導かれるようにふらふらと歩みを進めた。

「いらっしゃいませ」
 その店はパブだったが、他に誰もお客がいない。店内は静まり返り、時計の音だけがやけに大きく聞こえてくる。

「何でもいい、とにかく強い酒が欲しい」
「どうされました? やけ酒はお体に障りますよ」
 優しく微笑んだバーマンは私に忠告した。
「今の私に説教はやめてくれ。自分の過ちなら嫌と言うほどわかっている」
「後悔されることがおありなんですね」
「ああ、だからそう言っただろう」
 私はかなりイラついていた。

「でしたら、特別なお酒がございます。こちらで、大抵のことは忘れられます」「じゃあ、今直ぐそいつを出してくれ……」
「かしこまりました」

 バーマンはカウンターにコースターを敷き、カットグラスを丁寧に置いた。見ると、コースターには店の名前らしき名前がある。
 それには「時の忘れもの」と書かれていた。

「ウブリです」

 ひったくるようにグラスを取った私は、それを一気にあおった。飲み込んだ瞬間、かなり強い酒なのがわかる。喉から胃の腑へ落ちるまでが、ずっと焼けるように熱い。しかし、一旦収まってしまうと、さっきの刺激が嘘のようにさ消えてしまう。そして、不思議なことに、少しだけ気持が軽くなったような気がした。

「……あれ?」
「いかがですか?」
「なぜだろう、胸のつかえがとれたような気がする」
「それはよろしゅうございました」
 バーマンは静かに微笑んでいた。もう一口飲むと、ポッカリ口を開けていた心の傷までが塞がった気分になる。ホッとした私は、それまでの経緯をバーマンに語り始めた。誰でもいい、今は自分のやり切れない気持を聞いてほしかった。

「……お辛いことでしたね」
 話しながらグラスを重た。ひと口飲むごとに気持ちが軽くなっていった。
「つまらない話を聞かせてしまったね」
「誰にでも忘れてしまいたい経験はあるものです」
「そうだね、忘れられるものなら忘れてしまいたいよ」
 私はグラスの残りを飲み干した。

「お酒は全てを帳消しにしてはくれません。あくまでも一時凌ぎです」
「知っているさ」
 かなり飲んでしまったようだ。先ほどから少し呂律が回らない。
「随分お召し上がりになりましたね」
 バーマンは氷の浮いた水のグラスを私の前によこした。グラスの中で角が落とされた氷が透明な音を立てた。
「氷山の一角とは良く言ったものだね」
「0.9/1.03=0.873でしたか」
「ああ、海上に見えている氷山は全体の12.7%」
「世の中のほとんどのものは見ているようで、見えていないものです」
「私は妻の5%も見ていなかったよ」

 必死に生きてきたことには自信があった。どんな苦境でも逃げなかった。しかしそれは妻という存在があったからできたことだった。では、私は何をしてあげられたのだろう?

「奥さまにもお辛い出来事はあったと思います」
 言われてみればそうだ。しかし、妻が私に相談を持ちかけた記憶がない。いや、単なる愚痴や悩みさえ聞いた覚えがなかった。
「妻は私に何も言わなかった」
「お客さまは忙し過ぎました。必死に頑張っていたからこそ、ご自身のことで負担をかけたくなかったのではないでしょうか」

「私のことを……」
「お客さまの前では平気を装っていらしたのでしょう。本当の自分を見せないようになさったのかもしれません」
「私に余裕がないばっかりに、妻を追い込んでいたのは、他でもない私なのか」

「もう一つ大切なことを言い忘れていました」
「何……ですか?」
「お酒は嫌なことを忘れさせてくれますが、くれぐれも、別の人生をやり直そうなどと思いませんように」
「別の人生? 後悔先に立たずだね」
「ご理解頂ければ結構です」

「でも、誰だって後悔の一つや二つあるし、そいつをやり直したいって思うことだってあるよね?」
「勿論ございます」
「人は後悔する生き物なんだから……」
「ですが、流された後悔と、自分で決めてやった後悔は違います」
「自分で決めた時の方が、失敗した時の後悔は遥かに少ない?」
「おっしゃる通りです」

「失敗した時の覚悟のあるなしだと思うけど、だったら、何も気が付かずに起きてしまった後悔はどうなんですか?」
「過ぎ去ってしまったことです」
「だから忘れろと? そんな簡単にいけばはなから後悔なんてしないよ」
「お気持ちはわかります」

「そう、もう過ぎてしまった……だからやり直したいと思ってしまうんだ」
「仮にやり直したところで、今よりも良くなることはありません」
「何故、そう言い切れるんだ?」
 私は、冷静な顔で話すバーマンが少し意地悪く思えた。
「何度やり直したところで、最後は必ず同じ結果に帰結してしまうからです」
「必ず、同じ結果?」

 例えば、事故で死んだ恋人を過去へ戻って助けたとする。でも、その恋人は病気や殺人など別の理由で命を落とすことになる。つまり、どんな過去の改変でも、必ずなかったことになってしまう。時間線には自己修復能力があるという考え方だ。

「因果性は常に守られます」
「まるで見てきたように言うんだね……でも、私は辛いよ」
「お察しいたします」

「……だったら、別の人生を」
「お客さま、それ以上は……」
「はぁ……できるものなら、私はもう一度別の人生をやり直したいよ……」

 溜息とともに本音がこぼれた。ちょうどその刹那、視界がグニャっと歪んだかと思うと、一斉にぐるぐると回りだしたのだ。三半規管が壊れてしまったように、どこもかしこも回っている。気持ちが悪くて吐きそうだった。私はバランスを崩した弾みで、椅子から床へ転げ落ちてしまった。無様な姿を晒した恥ずかしさより、体の自由が利かないことに焦っていた。何とか起きあがろうともがくのだが、頭すら持ち上がらない。

『た、助けて……くれ」

 薄れゆく意識の中で「別の人生をお選びになりますか……」と言うバーマンの声を聞いた気がした。そして、私は深い闇の中へ落ちていった。

「あの~大丈夫ですかぁ? ちょっと、しっかりしてくださいよぉ」
 私ははっと目を覚ました。その途端、頭をハンマーで殴られたような激しい痛みが襲う。

「……あ、痛っ」
 陽は高く上がり、強い日差しが照りつけていた。細かい水しぶきが顔に掛った。私は青い作業着を着ていた。足元を見ると長靴を履いている。そして、手には雑巾を持っている。
「これは?」
 胸ポケットにワッペンがしてあった。その刺繍は、「カービューティエステ・プロ・シャイン」と読めた。

「ねえねえ、おっさんってば、さっきから何で、ぼーと突っ立っているんですか? お客さんが立て込んでいるんだから、さっさと働いてくださいよ」
 洗車用のスプレーガンを持った若い女性店員が私を怒鳴りつけた。

「あっ……」
 考えるより先に手が動いた。私は手にしたマイクロファイバー製のクロスを使って、目の前の外車に残った水滴を丹念に拭き取りはじめた。

「私はここ(洗車場)で働いていたんだった」
 ボーッと白く霞んだ頭が次第にはっきりしてくる。さすがに、痴呆症にはまだ早い。私は必死に頭を巡らせた。
「その前は何だっけ……ああ、そうだ。私は会社を経営していたような気がする。でも、でも、投資の失敗で……」

 私は、会社をつぶして社員を路頭に迷わせた愚かな経営者だ。いや、だった。本業でなら諦めもつく。しかし、リスクヘッジだの将来への備えだのと、甘い言葉にまんまと乗せられ、絵に描いたようなお決まりの末路。家も土地も手放し、最後には家族までも失った。全て自分がやったことだ。

 汗が目に染みて目の前が滲む。最後のひと拭きを終えた私は声を上げた。
「ただ今終わりました!」
 さっきの女性が駆け出す。待合室の所有者に洗車の完了を報告しに行ったのだ。
「大変お待たせいたしました。白のカイエンでお待ちのお客様、お車が仕上がりました!」

 女性とその娘らしき子供が、楽しそうな様子でラウンジから出てくる。
「ねーママ。今日はどうして自分でお車を洗わなかったの?」
「そうね、いろんなことを全部洗い流しておきたかったから……」
「いろんなこと?」
「あっ、ごめんね、何でもないわ。そうだ、後で美味しいミルフィーユ食べにいこうか!」
「え、ほんと?」
「パパには内緒よ。あー、その前にスマホをなくしちゃったから、買いに行ってからね」
「えー、ミルフィーユが先ー」

 仲睦まじい母娘だった。きっと何の苦労も知らず、この先も恩恵だけを享受しながら生きてゆくのだろう。

「幸せそうなツラしやがって……」
 この世の全てが自分のために回っているような顔だ。無性に腹が立って、手にした雑巾を地面に叩きつけた。額から汗が滴り落ちる。タオルを取り出そうとポケットに右手を突っ込んだ時、何かが指に触れた。

 スマホだった。
「何でこんなものが? くそっ!」

 そんなものを契約できる信用はとっくの昔に失っている。癇癪を起こした私は、思わず指に絡んだストラップを引きちぎっていた。小さな花火が弾けたみたいだった。一瞬でバラバラになったローズクオーツの粒は、それぞれが思い思い好きな所へ飛び散り、すぐに見えなくなってしまった。

 まるで、自ら手放した大切な夢の欠片のようだった。


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