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『全元号を体で感じる書展』 ~ 重層的・身体表現としての書~2024年9月21.22.23日(土日月)&28.29日(土日)

ギャラリーの重い扉を開くと、ちょうど眼の高さに数枚の書がのれんのように垂れ下がっていて、それをくぐるようにして展示空間が始まる。ギャラリーの四面に隙間なく埋め尽くされた書の数は全部で248。それらは全て日本の元号である。全体的にかなり明るい照明の使い方で、その中に紙の白が眩しく、墨の黒のコントラストが際立っていて、私たちが一般的に書に対して抱く伝統的なイメージとは違い、どこかSFチックな非現実の空気さえ漂っている。

正面の壁の右上方にスポットライトが一つ余計に当たっている書がある。最初の元号「大化」。西暦645年、そこがスタートである。その隣の列、右下に「令和」を見つける。縦1列4枚の書(元号)はクリップで繋がっており、壁に少し浮いた状態で上から垂れ下がっている。空調のせいか、紙がところどころヒラヒラ舞っていて、書が紙であることを実感する。作者が意図したことではないかもしれないが、ドシンと構えてオーラを放っている大きな一文字の書を見るのとは違い、いい意味での作者の作品づくりへの軽妙さを体現しているようで面白かった。

さて、「大化」始まり、順番に反時計回りで元号を過去から辿ってみることにする。まず初めに感じたのは、「こんな元号あったんだ」ということ。始まりの方は四文字の元号もある。書を通して知らなかった元号に出会う面白さがある。大化の次が「白雉」。白い雉?動物の名前が元号に使われていることが新鮮な驚きだ。そのほかにも「亀」がたくさん出てくるし、「康平」?人の名前じゃん!

さらに辿っていくと、色々な書体で元号が書かれていることに気づく。可愛らしい書体、荒々しいもの、破天荒な書体、種類に分けたら6、7種類ぐらいあるだろうか。これらの書体は何を反映したものだろうか、と考えたが、配られた「創作メモ」に用意した二つのメモがあったが、一つは元号一覧表(西暦に対応しているのでわかりやすい)で、もう一つにはいくつかの元号についてどういう思いで書いたかが記されている。それらのメモがあったおかげで、元号を通して日本の歴史を過去から巻き戻す面白さを体験し、時代によって違う書体に作者の想いが反映されていることが理解できた。

1周した後、真ん中に立って248の書に改めて囲まれてみる。「体で感じる書展」というタイトルだったが、静謐な書の空間というよりは圧迫感にかなり近いレベルの迫力といった感覚。ギャラリー空間には余白がなかったので、もう少し大きい空間で展示されていたらまた違う感じ方をしただろうと思った。

さて、空間に慣れてくると「色々な漢字があるなあ」としみじみ思う。漢字は書き文字だから、意味を伝えるが、絵として見ることもできる。そして一つ一つの書は元号としてそこにあるので、これらの書は日本の歴史でもある。元号という時代のロゴに託された願い、想いも書を通して自然と想起される。書とは白と黒で成り立つシンプルなものなのに、なんと重層的な表現なのだろう。それは実に新鮮な驚きだった。

さらに近寄って書のディテールを注意深く見てみる。使われている紙は未晒し(みざらし)の楮和紙だそうで、美しい。そしてその上に乗っかった墨もマットな質感だが、深みもある。次に筆使いをよく見てみる。筆の自由な振る舞い、カスレが印象的。一つ一つの漢字には書き順があり、跳ねや払いといった決まり事もある。90%の決まりごと、身体の束縛の中の筆使いの自由、その快感。そんな言葉が頭をよぎる。そういえば自分も小学校の時に書道教室に少し通っていたが、「型」の不自由さが嫌で好きになれなかったことを思い出す。作家の書は我流という事で、筆使いはセオリー無視のものが多いが、不思議と1枚1枚の書はバランスが取れている。作者曰く「248の書を書くのはマラソンのようであり、それぞれの書にはその時々の身体的、心理的なバイオリズムが反映されている」。書の伝統への挑戦的な姿勢も感じないではない展示ではあったが、それでも書はやはり作者にとっての身体表現であることには変わりはないのだと感じた。「書というのは体と心が筆に宿り、それが筆跡として残る」と言っていた人の言葉を思い出した。

(宇賀神拓也 / ギャラリー主宰)

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