幻想と時間|アーネスト・ヘミングウェイ
ささやかに愚かに、それでも人生と呼んで差し支えないものを、一周しようとしている。そう思ったときに、無性にヘミングウェイを読みたくなったことがある。ソリッドな文体から立ち上げられるイリュージョナルな風景。
ヘミングウェイ全短編|高見浩/訳|新潮文庫
短編の名手と称される理由を深々と味わいながら、若き日に作家を志してパリで暮らし、セザンヌを観るために美術館へ通ったという解説によって、一瞬のうちに様々なことが僕のなかでつながったところがある。
ナイーブなフィッツジェラルドと、タフなヘミングウェイという文脈以上に、絵画におけるセザンヌのように、小説の仕組みを方法論的に解き明かす何かがあるように感じた。
またそれは、もしかすると小説にとどまらず、音楽の構造やピアノを弾くという行為にも及んでいるのではないか。ピアノとは打楽器的に鍵盤を叩くものであると同時に、歌うようなフレージングを生み出すものでもある。こうした両義性は、ソリッドな文体によって立ち上げられたイリュージョナルな世界という、ヘミングウェイの作風に通じており、セザンヌの絵画的な方法論にも近接しているように思う。
日課にしているバッハの平均律も、ミニマムな主題を、幻想的に(プレリュード)構成的に(フーガ)展開させているように。
幻想と現実との関係は、ごく一般的に思われているようなものではなく、マルティン・ハイデガー(1889 - 1976年)が『存在と時間』で述べているように、存在者(僕たち一人一人)を存在者たらしめているものは、存在(時間のうちに総合された幻想性)であり、つまり幻想こそが、現実を現実たらしめていることになる。
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たぶん、だからだろうと思う。
30代の頃に無性に絵を描きたくなり、手にした水彩セットで何枚か描いた。そのうちの1枚に、蓮の葉の持つ生命力に、静かに心惹かれたものがある。息子が成長していく姿と、母親の死とのコントラストが強く刻まれたこともある。
描いている間は、当然のように、絵としての技術のことばかりを考えていた。けれど、家族が寝静まった夜に、額装してリビングに飾ってある1枚が視界に入ると、俺は何を描いたんだろうと少し立ち止まることになった。
そして、ある日思い当たったのが、それは時間だったのではないかということだった。
アンリ・ベルクソン(1859 - 1941年)が言ったように、時間とは物理的に刻まれる(時計のような)空間的なものではなく、意識の連続性(もしくは断続性)それ自身のことのように思う。
そのため、一見すると、三次元の空間を二次元の平面へと転写しているように感じる絵画についても、その対象をどのように捉えたのか(あるいは捉えなかったのか)という認識論的な要素が色濃く宿っており、本質的には時間(意識の連続性や断続性)を描いているところがある。
いっぽう、時間芸術とされる音楽についても、同様の転倒が生じることがある。いわゆる主題労作と呼ばれる、フレーズ(テーマ)をいかに発展させるかという方法論は、バッハのフーガなどに典型的なように、どこか空間的でもある。
こうしたことから、僕たちの生きている世界が「生きられる」ための必須条件として、時間という要素も空間という要素も、同じくらいに不可欠であることがよく分かる。まぎれもなく、僕たちは四次元世界に生きている。
何を今更という気づきではある。しかし、この大前提を深く腹の底に沈めることで、僕の場合はずいぶん見通しが良くなったところがあり、嘘と本当の見分けが、それ以前よりもつくようになった。
世の中に流布している言説が嘘である場合の多くは、意識的にであれ無意識的にであれ、時間を見落としている。
また、25年前に購入したグランドピアノを、長期的には継続して弾いてはいるものの、短期的には弾く時期と弾かない時期とがあった。そして弾く時期には、妙に心が安定していた理由は、音楽によってもたらされる時間性のうちに、直感的に、こうした幻想と時間の関係が身体化されていたからだろうと思う。
誰に聴かせるわけでもなく、しかし、飽きることなく弾いている理由は、きっとここにある。