雲(cloud)と溶け合うように
ITにおけるクラウド技術(インフラ)が登場したときに、不思議な気持ちがしたのと同時に、あぁ、これは僕たちのことでもあるなと、腑に落ちるようなところもあった。
集合知といった、コンテンツ(内容)やそれらを紐づけること(体系)以前の問題として、僕たち1人1人の身体(脳的なものから身体的なものに至るまで)が、ある種のハードディスクとなって、巨大なネットワークのように機能していることの、1つの暗喩のようにさえ思った。
僕たちは、それぞれに自我という切実な現象を生きているため、もちろん単純に機能的なハードディスクではなく、それぞれに固有のソフトウェアを起動しながら、それぞれの意思によって複雑に(非機能的に)動いている。しかし、そうした固有性を無数に集積していくなら、どこか普遍的なパターンに集約されていくようなところがきっとある。
それは、ルネ・デカルト(1596 - 1650年)という自我を突き詰めていった先に、バールーフ・スピノザ(1632 - 1677年)という汎神性を見出すことと、どこか似ているような気がする。自意識を切実に生きれば生きるほど、固有性とは正反対の風景へと僕たちを導いていく。
*
そうしたクラウド的なネットワークのなかで、僕も僕なりの固有性と非固有性を切実に生きており、そのうちの1つの相(そう)として、ピアノを弾くことがある。
かれこれ四半世紀の付き合いになるYAMAHAC3。日本で音大を目指す学生たちが普通に使うような、普通のグランドピアノ。誰に聴かせるわけでもなく(本を読むことや、映画を観ることを、誰かに見せることがないのと同じように)、一人で黙々と弾いている。
半年ほど前から、あらためて一人でピアノを弾くことに取り組んでおり、バッハの平均率を日課としたこともあるかもしれない。バッハの音楽は、よく指摘されるようにスピノザ的な世界像と親和性が高く、ピアノを弾く技術は、本を読む技術や、映画を観る技術というものがもしもあれば、同じ程度の意味しかない(もしくは、同じ程度の技術を要する)のではないかと強く思う。
また、今年50歳になってから読んだ、アントン・チェーホフ(1860 - 1904年)の憂鬱な官能に触れたことも大きい。チェーホフの示した憂鬱は、非固有性のなかにこそ、固有の切実さを慰撫し、励ます力が宿っている。
雲(cloud)の粒子の1つとして、また、そうした大きな運動(うごめき)と溶け合うように、弾いた曲や、読んだ本などを、ささやかに記録していきたい。