練武知真 第30話『清濁併せ呑む器量を育む為の武術』
この練武知真シリーズで幾度も述べてきましたが、武術の元々の本分は闘いです。
伝統武術の中にはその要素が多く残されています。
例えば武器術。
槍や棍などの長い武器から、
刀や剣などの短い武器まで、
どれを手に取っても扱えるよう訓練します。
伝統武術に含まれる武器術は、表演用に開発されたものではなく、それを持って他者を打ち、斬り、刺して殺傷する為の技術です。
その背景は、
ルールがあり、審判がいて、試合会場で行うものとは異なり、
過日の日常において発生する生命のやり取りの場なのです。
ですので、武器術の練習においては、動きを学び終えたら「心」でその動きを導き出せるようトレーニングします。
人を傷付ける覚悟をもって、仮想敵に対して技を振るいます。
そうしないと、武器術はパフォーマンスで終わってしまうからです。
勿論、現代社会において、他者に対してこのような武器術を実際に使う事はありません。
ただ武器術を本当にきちんと習得したければ、その精神はどうしても必要なのです。
しかし・・・
このような「他者を殺傷する精神」の活用は、段々と自分の精神をも犯してくるリスクがあります。
性格が凶暴になったり、周囲の人達と解離していったりします。
「他者を殺傷する精神」などというものは、人間相互のコミュニケーションにおいて「最悪」のものだからです。
下手をすれば、自分も、そして周りの人達をも傷付ける結果になってしまいます。
そこで必要になってくるのが、その凶の精神とバランスを取る為の修行です。
例えば、『形意拳』では、
「心」を頭と共に「天」へ上げて、伸びやかで、広い、高潔な精神を養うことを心掛けます。
また、
「体」を「地」へと結び、落ち着いて堂々とした器量を養います。
『天と地と繋がった人間になることを目指す』
これが形意拳の根本である『三体式』の求める高い境地なのです。
私が修するもう1つの武術『八卦掌』の話をしましょう。
八卦掌は円弧を描くフットワーク、龍のようなしなやかな体使い、止まることなく滑らかに動き続ける「舞い」のような武術です。
その美しさから、最近では様々なパフォーマンスや身体芸術において参考とされているようです。
私の八卦掌の門派、呉峻山系九宮八卦掌には、基本練習に打撃(発勁)訓練が入っていません。
それらは「套路」と呼ばれる複数の技で構成された型の中に含まれており、そこから抜き出してトレーニングします。
基本練習では、体捌きと移動能力の向上に特化するのです。
一般的に徒手格闘技においては、パンチやキックなどの打撃、投げなどは基本として、徹底的に練り上げます。
九宮八卦掌にはそれがない。
それは何故か・・・
私が長年の修行を通して感じたのは、この武術の本分は「武器術」だということ。
八卦掌では『暗器』と呼ばれる隠し武器が使われます。
「判官筆」と呼ばれる先端が尖った小さな棒状のようなものから、
「子母鴛鴦鉞」と呼ばれる特殊な形状のものまで。
いずれも両手に1つずつ持って扱う小型の武器です。
八卦掌は意表をついた動きや、相手の側面や背後に回り込むのを特徴とする武術。
そう考えると、素手の攻撃力を向上することにエネルギーの多くを費やすより、
これらの暗器を効果的使える身体操作法をまず身に付けた方が、相手を殺傷するには効果的なのです。
その使い方は残忍性の高いもので、現代では容認されるものではありません。
しかし、物事を見るには、その時代背景を考える必要があります。
八卦掌が成立した時代では、そういったものが武術に求められていたのでしょう。
天地の間を自在に舞う「龍」の精神を宿して、伸びやかに爽快に体を動かす美しき武術。
その反面として冷酷な暗殺術としての「凶」を内に潜める武術。
その両極端の性質を併せ持つのが八卦掌なのです。
残念ながら人間の社会から完全に肉体的・精神的な暴力がなくなる事はないと私は思います。
それは20年に及ぶ警察経験で見てきた実感です。
我が身や大切な人達に降りかかる危害に対処できる心身は、やはり必要なことのように感じています。
それと同時に、
ただ危機管理だけに執心せずに、
大前提として、ポジティブに明るい方向へ向かって自分の人生を進めてゆく事が本当に大切だと思っています。
この異なる二つの世界から目を反らさず、全てを懐へ抱えて歩んでゆく「器量の大きさ」を育むこと。
「清濁併せ呑む器」を作る。
それは武術だからこそ育める重要な資質だと思うのです。
2024年9月11日 小幡 良祐
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