ミュージシャンと聴き手との関係性②

以前から書いていることですが、音楽は聴き手なしには存在しません。

まあ少なくとも「自分」という聴き手はいるので、どんな音楽でも聴き手との関係性は存在しているはずです。

ただ、自分しか聴き手がいなければ、自分の好きなように制作していればいい話で、何の問題もありません。

実際にその前提で制作している方もいらっしゃると思います。

それはそれで音楽の在り方としてはありでしょう。

気に入った方だけ聴いていればいい、決して悪いことではないし、ある意味純粋と言えるのかもしれません。

それで他の方たちがこぞって聴けばそれに勝ることはないとする方もいらっしゃるでしょう。

ただ自分自身はそうとは考えていません。

単に自分の好みがありふれたものであって、かつその通り作ることが出来るのであれば、確かに聴き手は満足するでしょうが、自分の好みが変わらない限り、紋切り型の作品しか作れないでしょう。

その音楽はありふれたものにしかなりえません。

金太郎飴の量産でしかない。

近代的自我が欠けているんですよ。

もちろん近代的自我を全面肯定するつもりもありませんが、そもそも現在の音楽の在り方が「近代的自我」を前提として作られているので、やはりずれている。

「個」というものが、近代的自我から生まれたと言ってもいいでしょう。それ以前は、一部の例外を除けば基本的に同じものを作ることに何の疑問も無かった時代です。

中世ヨーロッパの宗教画を見れば、個人というものが必要とされていなかったことが良く分かると思います。

あくまでも宗教を讃えることが目的であって、個性など必要無かった。

でも「近代」は「個」にフォーカスがあてられている時代です(もちろん現代もそのことに関して疑問が投げかけられることはあっても、それが大きく変わったということではない)。

そうなると、最初に挙げたような例は「近代以前」の感覚で作られたものでしかないんですよ。

で、「近代的自我」という視点から見れば、単に自分が聴いて気持ちいい音楽では、この要件を満たすことはありえません。

そこには「個」という概念が抜け落ちているからです。

そう考えると音楽の在り方自体が変わってくるはずです。

もちろん「近代的自我」という概念自体に問題がある、と言われば、前提条件から崩れることにはなりますが、そこを考えると音楽の世界からどんどん離れていってしまうので、今日はこの辺にして、この前提を元にした上でこれから話を進めていきたいと思います。



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