作曲・編曲157
基本的に流れとしては変わらないのですが、どんどんYouTubeと関係ない話になってきたので、この続きにしました。
「近代的自我」、これは音楽に限らず、今の世の中のほぼ全てを覆い尽くしていると言っても過言ではないでしょう。
教育自体がそうじゃないですか。
まあ中には麴町中のヒップホップ禁止、あれは近代以前のものであり、封建制に近い話なので論外ですが。
あの校長に「近代的自我」はありません。
上に従う、それだけが目的の完全な思考停止(というより、思考するだけの頭がないのかも)。江戸時代の方がまだ封建的ではない。
まあ前校長との「差異」を生み出そうとしているなら、これもまた「近代的自我」の産物ですが、自分自身が気付いていないところが致命傷。
あれで校長になれるのだから教員もばかにされる訳です。「お上」に従うことが目的化している。まあ今どきの校長なんてそんなものなんだろうけど。※教員の質の問題もあるとは思いますが、敢えてその点については触れません。音楽以外の話を延々と続けることになるので。
そういう観点からすると、「近代的自我」は覆いつくしていない、とも言えるのですが、近代国家でこんな国は他にはないでしょう。
アジア圏見たってエゴまる出しの国、多いですからね。
実際にはそこに反する形で「近代的自我」が生み出された、と言っていいのだと考えています。
って音楽の話じゃないですね。
すみません。元に戻します。
歴史的に見た場合、モーツァルトは「近代的自我」が発見される前の作曲家、ベートーヴェンは「近代的自我」の象徴とでもいうべき作曲家。
この作曲家を並べて評価すること自体、そもそも無理。
「近代的自我」を前提として制作すると、他の音楽との「差別化」が必要になるから、数は作れなくなる。
「近代的自我」を前提とすると、これまであった作品と似たような作品は作れなくなります。
「オリジナリティ」がなくてはならないもののなるからです。
もちろんモーツァルトの作品に「独自性」がないとは言いません。
ただモーツァルトのそれは結果的に生じたものでしかない。
それが必要とされていない時代の作品だからです。
逆にベートーヴェンはそれがないとだめな時代の作曲家(というより、「独自性」が音楽に必要だということを決定づけた人。と言っても過言ではないかもしれません)。
だから、「オリジナリティ」という観点からすれば、ベートーヴェンの方が高くなるのは当たり前です。
ただ、それは時代的制約によるものだけだと考えていいのでしょうか。
逆に考えるとモーツァルトの独自性は何故生まれたのか、という話になってきます。
あ、もう文字数が4桁なので、続きはまた明日にでも。