ミュージシャンと聴き手との関係性③
昨日は少し小難しい話を書きましたが、一言で言うと、音楽の中にも自分自身の「独自性」が必要だということです。
それがないということは「個」(というより「個性」と言った方が、少し意味は違いますが分かりやすいかもしれません)がない音楽だということになります。
で近代にそれは求められていない。
現代の世の中ですら個性個性とうるさいじゃないですか。
自分が自分であるためには、他者との差異が必要になるからこういう話になる訳です。
人と違うものを作らなきゃいけないんですよ。
もちろん単に違うものを作るのということであれば誰にでも出来ます。
ただそこには「音楽」という制約がある。ただ音を並べるだけではなく、一般的には「聴き手」に受け入れられる必要がある。
「聴き手」に受け入れられることと、他の音楽と違っていること(他の音楽との差異があるということ)、この2つを両立させる必要が生じる訳です。
但しどの程度差異があれば差異と見做されるのか、これは正直なところ「聴き手」が決めることなんですよ。
そして、「聴き手」が音楽に個性を求めているかすら分からないでしょう。
単にBGMとして聴くだけなら、そんな余計なものはない方がいいのかもしれません。
人と同じでいい、と考えている人は少ないと思います。そういう教育を受け続けてきた訳ですから。
ただ、音楽においてそれを求めているか、ということは全く別の話です。
聴き手は聴いていて気持ちが良ければそれでいいのかもしれない。
音楽に求めるものは人それぞれですから。
ただ作り手側はそうではない。ミュージシャンですから(笑)。
そうするとここに「聴き手」と「作り手」の間に非対称性があることが分かります。
音楽に多くを求めない(かもしれない)聴き手と、音楽で表現するしかない作り手、当然在り方自体が違わざるを得ない。
でここに「作り手」の難しさがある訳ですが、大分記事も長くなってきたので今日はこの辺で。