作曲の方法論66
で次は「頭の中にないものを創作する」ことを「コード先」で制作することについて書いていきたいと思います.
この方法は大別すると2つあると考えています。
一つは定番的なコード進行を組み合わせてコードを組み立て、その上にメロを乗せる方法、もう一つは完全にコード進行自体を一から組み立てる方法です。
「一からコードを作る」というのもありますが、そこまでやっているときりがない上に、事例自体が少ないので(自分はやったことがありますが(笑))、ここでは触れないことにします。
で先に上げた二つですが、これは「コード先」と言いながら、全く別の方法なので、分割して記事にしたいと思います。
で今日はまず「定番的なコード進行」を組合せて曲を作る方法から書いていきたいと思います。
実際にはこれが最も一般的な作り方かもしれません。「オリジナリティ」に欠けるかと言うと、意外にそうでもなくて、何と何を組み合わせるか、というのもある意味オリジナリティですから。
例えばYOASOBIのAyaseさんですが、完全に好きなパターンというのがあって、そこから派生させてコード進行を作ってますよね。
ただもう完全にこれが個性になってしまっていて、逆にこうこないとYOASOBIじゃない、という世界まで行ってしまっている、良くも悪くも凄いなあ、と思います。
で、この方法の長所ですが
・定番的なコード進行なので、耳障りは良い
・組み合わせ次第ではオリジナリティが出せなくもない
・メロの動きが「メロ先」よりも自由に動ける
短所は
・定番的なコード進行自体の数が大量にある訳ではない
・そのため「似た曲」になるリスクが確実に高まる
・「好き」に偏ると「ワンパターン」になる
といったところでしょうか。
例えばAyaseさんの曲でも「再会」を歌っているつもりが「夜に駆ける」になってしまうことがままあるんですよね。あと「ハルジオン」も...。
これはいいとか悪いとかという問題ではなく、好みの問題ですね。YOASOBIを酷評する方もいらっしゃるようですが、個人的には好きですから。
酷評する方って「表層」しか聴いていないと思うんですよね。音がしょぼいとかちゃんとしたスピーカーでは聴けない、なんて音楽の本質からはずれた見解としか思えません。「音楽評論家」というより「音の評論家」(「音響評論家」だと別の意味になるので)と言った方がいいのでは(笑)。
まあ日本のポピュラーの音楽文化なんてそんなもの、とも言えますが。音楽の構造が分からないから、精神論的な評論が多すぎると常々感じています。理解している方もいますが、むしろ少数派でしょう。音楽誌の記事の内容の薄さがそれを物語っています。
あ、話戻しますね(笑)。
コード進行の基本形が同じだと、こういう危険は確実に起こりやすいと思います。特に使っているコード進行の一つが「特徴の強い」ものだから、という点があることも大きいとは思いますが。
もちろん、だからこそいい、という考え方もあり、それこそがオリジナリティ、という見方も出来るのですが、それで飽きることなく聴かせる、というのは容易いことではない、と思います。
また逆に「一定の制約」があるからこそ、そこで何が出来るかを考えていく、という方法論も重要な訳で、その観点からすれば、このような方法は「良い方法」なのかとも思います。
ただ気をつける必要があるのは、コード進行の組み合わせパターンが「良く使われるもの」であり、そこから作品が作られる、というケースでしょうか。
この場合だと、やはり「オリジナリティ」の高い曲を作ることはハードルが高いです。但しそのような場合でも「コード先」というやり方の場合、「メロ」の自由度自体は高いので、載せるメロが重要になってきます。
ただ一番ダメなのはこういった「コード先」の問題に気を使わないまま、なんとなく定番的なコード進行を使い、なんとなくメロを載せて「曲出来ました」という場合でしょう。
この方法に潜む危険性に無自覚なまま曲を作る、この方法ってなんとなくいい曲になってしまうから、実に危険な方法です。
やはりこのようなやり方で曲を作る場合、このやり方に対して「どれくらい、どのような危険性があるか」を自覚的に作っていくところが鍵になってくると思います。
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