曲と歌詞⑨
昨日、何故「分かりやすい歌詞」と「分かりにくい歌詞」があるのか、ということを最後に述べました。
その答えは音楽の「外側」にあると考えています。
何故歌詞は「歌詞」であって、「詩」ではないのか、というところにその鍵があるのかと。
「分かりにくい歌詞」は少ないけれど、「分かりにくい詩」はいくらでもありますから。
例えば谷川俊太郎さんの詩を読んで、「分かりやすい」とは感じないでしょう。まあ、「分かりにくい」というのとは少し違っていて、どちらかと言うと「体なり心で感じる詩」という方が適当かと。
そういう点を考えると、谷川俊太郎さんの詩は、現代の詩の中では相当「分かりやすい」詩だと思います。
谷川俊太郎さんの場合、詩は感覚的だから、言葉以外の部分で伝わるものがあると思いますが、いわゆる現代詩の作者、特に「前衛的」な作者であればやはり「分からない」詩も多いでしょう。
当たり前です。「詩」は内容を伝えるための文章ではありませんから。
良く「分からないことを分かりにくく書いてある文章は悪い文章であり、分かりにくいことを分かりやすく書いてあるのがいい文章である」という方がいらっしゃいます。
それは「説明文」なり「論説文」の世界では正しかったとしても、例えば小説ならどうでしょうか。
※自分は「説明文」なり「論説文」であっても、分かりやすいことが「正しい」とは思いません。分かりにくい内容を分かりやすい文章にすると、必ずそこから「抜け落ちるもの」があり、実はその点にこそ、意味がある場合も多いからです。
実際に小説家の方に自分の書いた小説に関する試験問題を解かせると、結構間違えます。
これは小説の「特性」といってよいでしょう。相手に物事を「説明」する文章ではないので、分からなくてもいいんですよ。
論理的である必要も無ければ、分かりやすい必要もありません。むしろ「分かりやすい小説」は適当に読んでも理解出来てしまうから、作品の中に読み手を引きずり込むことは出来ないと思います。
ある程度「分かりにくい」部分を残しておかないと、読み手の心には引っかからないんですよ。すぐ分かる文章であれば流し読みされるだけです。「分からない要素」があるから、そこで読み手は立ち止まらなけらばならないし、そこで「思考」が必要になります。
で、多分一番「分からない」文章が「詩」なんだと思います。長編詩というのもありますが、一般的には小説よりずっと短い文章で相手に「思考」なり「感情」を表出させなければなりません。
そのためにはやはり、読み手に「流される文章」ではいけないんですよ。
でも歌詞にはそのようなことは求められません。「流し読み」の共感であっても、相手が「読み手」ではなく「聴き手」になるので、全く問題ありません。
むしろ曲と一体感のある歌詞の方が「共感」は得られやすいでしょう。仮にバラードの曲に「うっせぇわ」のような歌詞がついていたら、「何これ?」で終わってしまうと思います。
「詩」は独立した存在で在りうるのに対し、歌詞は必ずしも「詩」から独立した存在にはならないだろう、と考えています。
もちろん、「歌詞」として書かれていても、「曲」から独立した存在と成り得る作品があるのも事実であり、そういう意味からすると、「二時間だけのバカンス」や「Hotel California」は「詩」と呼んでいい作品かもしれません。
Bob Dylanがノーベル文学賞取ったのも「歌詞」ではなく「詩」だからでしょう。「All Along The Watchtower」なんて、本当に素晴らしい詩ですし。
ただ、全ての歌詞に当てはまる訳ではなく、「曲」から独立していない「歌詞」の方が多いと感じています。
自分が他の方の「詩」に曲を付けた場合、「歌詞」とは呼ばず、「詩」と呼ぶのも、それは「最初に詩があった」からです。
「歌詞」になることが想定して書かれていたとしても、やはり最初の時点では。どんな「曲」が付くかは想定されておらず、独立した「作品」として存在しているからです。
自分自身、他の方の曲に「歌詞」を付けたこともありますが、その場合は「曲先」なので、「歌詞」と読んでいます。
自分書いた「歌詞」が曲から独立した存在かどうかを判断するのは、自分ではなく「聴き手」ですから。
明日からは、ある種「曲」から独立しても存在しうる「歌詞」(=「詩」とも呼べる「歌詞」)、について書いていきたいと思います。
ほぼ書きたいことを書いていて、読んでいただけることも期待していませんが、もし波長が合えばサポートいただけると嬉しいです!。