純邦楽⑰
ほぼ忘れかけてましたが、今後の純邦楽の可能性について書いていたんですよね。
微妙な表現になりますが、「純邦楽」、「純邦楽」で無くなってこそ可能性があると考えています。
まあ書いている内にこういう結論になったので、最初はこんなこと、全く考えていませんでした。
層が少ないから姿が変わらないということは、裏返すと層が厚くなれば必然的に姿が変わっていくということです。
まあ層はそう簡単に厚くはならないでしょうが。
でそのためには、「純邦楽」に携わる人間が変わらないとだめでしょう。
西洋音楽から入ってくるだけでは、「純邦楽」の影響を受けた西洋音楽にしかならない。
それ位「西洋音楽」の力は強いんですよ。
理論的に構築されているから、「純邦楽」を語るにしても、西洋音楽の言語で語るしかない、これが現実です。
結局「西洋音楽」に回収されるだけになってしまう。
それを防ぐためには「純邦楽」は「純邦楽」であることを止めなければだめでしょう。
変化を恐れていても同じところをぐるぐる回るだけにしかなりません。
でもどうやって変化すればいいのか。
逆説的になりますが、それには「西洋音楽」を使うしかないんですよ。そうしない限り「純邦楽」は言語化されない。
自分自身を知らないのに変化していくことは出来ないでしょう。ただ、「純邦楽」はそのような言葉を持っていない。
だから「西洋音楽」の力を借りるしかないんですよ。
やはり「純邦楽」に携わる人間は「西洋音楽」を学んだ方がいい。
それでは「純邦楽」ではない、と言われるかもしれません。
ただ、極論するとこの国の文化は他国の影響で出来ているものなのだから、そのことを恐れていてもしょうがないでしょう。元をただせば大抵あの国の影響を受けている。「純邦楽」という表現自体がある意味「幻想」でしかない。
漢字にしろ元々は輸入品だし、カナですらその漢字なしでは成立しなかった訳ですから。
まあ今の状況を見ているととてもまともな国とは思えませんが…。
また話が逸れてますね。
ちょっと軌道修正したいので、今日はこの辺にして、続きは明日にでも書きたいと思います。
ほぼ書きたいことを書いていて、読んでいただけることも期待していませんが、もし波長が合えばサポートいただけると嬉しいです!。