「あなたの笑顔が見たいから」

よくある臭いセリフ。

「あなたの笑顔が見たいから」

日常で使うことはそうないだろう。
でも僕のこれまでの人生はこの一言で表せる。今日は僕の生き方の話。




昔から人の機嫌をとるのだけは得意だった。

小学校や中学校の時、必ずクラスには担任の先生がいて、関わる機会は多かったと思う。
僕の中では先生のお気に入りの生徒になれるかどうかが全てだった。先生に怒られることは絶対の禁忌だと思っていた。

例えば、宿題。
「ここまでやっといてね」って言われたことをやるのは当たり前で、言われてない部分もちょこっと余分にやった。だってそうすれば先生が喜んでくれるから。
どれだけ体調が悪くても、どれだけ時間がなくても、自分を犠牲にしまくって最低限のことはやった。決められた宿題はやらないと死ぬと思っていた。

例えば、掃除。
言われた担当の範囲をきちんとやるのは当たり前で、言われてないけど汚いなと思う部分は自主的にやってた。掃除なんてやらない人は全然やらないから、僕は圧倒的に「良い生徒」だった。先生はとても褒めてくれた。

とにかく先生が笑ってくれるのが嬉しかった。僕を安心させた。先生に言われたことを完璧にやっていけば上手く生きていけるって、そう思ってた。




もう一人、機嫌をいつもとっていた人。母親。
幼い頃から教育熱心だった。だから僕が学校で良い成績を取るととても喜んでくれた。笑ってくれた。
でも成績が悪くなるととても機嫌が悪くなった。グチグチと怒られた。それが本当に嫌だった。

だから僕は勉強をがんばった。母親を喜ばせるために、テスト勉強をきちんとやり、塾にも行った。


以前のnoteにも書いた高校受験と大学受験の話も同じ。
難関校に合格すれば、塾の先生も親も友達もみんな「おめでとう」って言って喜んでくれるじゃん。笑ってくれるじゃん。
だから僕は難関校を受ける意志を示して、課された課題を必死にやった。
灘高に落ちた時の親の悲しそうな顔を見るのが辛くてしょうがなかったからこそ、大学受験は頑張れたんだと思う。

小学校中学校高校と、与えられた物を卒なくこなしていけば人生がうまくいってた。だから受験も、言われたことをきちんとやって、最終的に東大合格を勝ち取った。


僕はただ笑顔が見たかった。
「落ちました」って報告して、辛そうな悲しそうな顔、そして親の怒った顔を見るのが嫌だった。自分の合格報告を聞いて笑ってくれるみんなの顔が見たくてがむしゃらにがんばった。





そして大学生。親元から離れ、一人暮らし。
僕は点数、単位さえきちんと取ればいいと思っていた。「きっちり単位取り切ったよ」と言えば親は喜んでくれるから。
そして不可を取ることは絶対の禁忌だと捉えた。教授は「この生徒はダメだ」と考えて不可をつけるはず。そんな気持ちにさせてしまう自分は許せなかった。自分がとった科目は死んでも単位を取らなければいけないと思っていた。教授に笑顔で成績をつけて欲しかった。

サークルで結果を残せた時も、みんなが笑って喜んでくれたり褒めてくれたりするのがとても嬉しかった。人から称賛の目で見られたかった。人の目しか気にしていなかった。







時は流れ、大学4年。

僕は気づいた。



自分のためにがんばったことが何もない。



いつだって人のためだった。
自分自身のために何かを努力することを僕は知らなかった。

大学4年になっていよいよ自分の将来を考えないといけなくなった時、僕は自分を見つめ直してこの事実に気づいた。このまま人の目を気にし続けて、やりたくないようなことも縛られてやってしまう自分の将来が怖くなった。



僕は自分のために頑張れること。自分のやりたいことを考えた。


でも、答えがわからない。


たぶん今まで本当の自分に嘘をつき続けていたからなのかな。

そういう癖がついちゃったのかな。

なんか『本当の自分』ってなんだろう、って思った。



頭良い大学に来たら、今までわからなかった将来の夢見つかるかな、とか思ったけど。
見つかったのは「将来の夢が見つからなかった理由」だった。



大学生活を通して自分を見つめ直すことで、僕という人間への理解は深まった。でも、ちょっと遅かった。もう少し早くわかってれば、大学生の間にいろんなことできたのになあ。



今僕は、自分自身への理解の時期と社会選択の時期がかぶって正直混乱している。
自分に向いてる社会の生き方ってなんだろう。

人を笑顔にさせられる仕事ができればいいな。