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狩猟民の世界ー縦にわかれたふたつの世界

ちょっとあるところ(まだ成果がでるかわからん)の宗教について調べていて、ちょっとかれらについて、肌身にせまる息遣いを誰か書き残してくださってないかな、と民族誌的記述のなかを掘り進んでいたら、なつかしいものがみえてきた。

わたしはいままで牧畜民(乾燥地)が好きで、いろいろ資料を読んできたのだが、なんとなくスンとなるので、あまり口をだすのをひかえている二大牧畜民がいる。某それ(うむ)とモンゴルである。


んで、みえてきた「なつかしいもの」を思って、やっぱりなぁ、やっぱり某それもこっちのほうなのかもな、と感慨をおぼえつつも、これ、議論になるのかなぁ、と読んで提示しなければならない膨大な資料を思い、ちょっと初動に二の足を踏んでいたところである。
「某それ」がちょっとどんづまりの地域の民族ということもあって、それについて書いておられる人々が、低地の牧畜民との比較とかあまりしていない、ようにみえたというところもあったというのもあり(ちょっと特集本での話です。読んでおられる人もおられるとは思っている)、ちょいと昔読んでいた民族の民族誌のことを雑談ちっくに書き散らしてみようと思う。




「狩猟民」の世界である。




狩猟民の世界が、「牧畜民」の世界の基層を構成してみえるときがあるのである。
こんなものをまたみるときがくるとは。
狩猟民の世界の分割のしかたは、わたしがそれまでみてきたトルコ系ペルシア系アラブ系の世界とはまったく異なってみえる。


狩猟民の宗教的な世界観の特徴をひとことでわたしが述べるとしたら、
それは「むこう側」と「こちら側」を縦に2つにわけたあいだでの、「対等」な「共鳴」、あるいは「循環」ではないかと思っている。

その「むこう側」には「一つの神」のような影がみえるときもあるが、
その手前には無数の日常の神がおり、
それらが「一つ」に収斂される可能性はみてとれない。
「一つの神」を信奉する世界にはなりえそうもない世界である。


神的世界の「むこう側」と俗世である「こちら側」…みたいな話は日本にもある、かも…とも思うのだが、神を叱責する、神格をその資格なしとしてひきずりおろす、神を脅していうことを聞かせる(「対等」)、といった態度が民間の日常にまで浸透してたかなぁ…と思うとちょっと確信がないところもあり、ま、文献を読んでうけた印象というだけの、大づかみな話で。


狩猟民の世界でまずわたしが興味深いのは、狩猟対象である動物を見下したり、ただの「獲物」やトロフィーとして扱ったりするところがなく、相手を尊敬していることがはっきりと書いてあるところかと思う。

「シベリア諸族のような狩猟民族のもとでは、人は動物ときわめて親密に結ばれていると感じる。人類から獣類に対して、どちらが優位にあるかなど問うたりはしないであろう。」(ロット=ファルク『シベリアの狩猟儀礼』 1980[初出は1953]:14)

動物はいくつかの点で人より優っている」(ロット=ファルク『シベリアの狩猟儀礼』1980[初出は1953]:14)

「熊は話そうと思えば話せるのだが、あえてそうしないでいるので、ヤクートは、この点で熊が人間に優っていると考えている。」(ロット=ファルク『シベリアの狩猟儀礼』1980[初出は1953]:14)

「私は、クマを自分の師匠だと本気で思っています。なぜクマが師匠かというと、クマの足跡を見つけたときにクマを一生懸命追って歩く。そうやって追っていくうちに、山の歩き方やクマの行動などをすべて学んだからなのです。」(姉崎『クマにあったらどうするかーアイヌ民族最後の狩人』2002:13)

※↑ハードカバー版のほうで引用しております。

それが観念的な「尊敬」ではないと思うのは、かれらには動物をみていることで、相手から学ぶふるまいがあるからである。
相手のふるまいと自分のふるまいとが、互いのあいだで共振し、共感につながっている。動物と人のあいだは、植物と人のあいだとは異なる部分が多い。

「一番最初に山に登った時はとても怖かったです。登って行きながら山の片側だけこういう形だなと理解して登って行くんだけどその裏側が怖いんですよ。山に地獄があるわけではないですけど、その裏にどんな滝があるのか、どんな地形になっているのか、わからないだけに怖い。怖いながらも登っていく。これを私の表現で『山の裏に地獄があるように怖かった』と言うんです。険しい山を登りきっていけるのもクマが行っているからで登る道筋をクマが教えてくれる。それをたどっているうりにクマは次の山、次の山へと移って歩く。その移り方もケモノ道を通って歩いていく。ケモノから教わる歩き方も達者になるんですよね。人間が歩くのと違う点は、人間というのは高い山に登って次の山に移るときに、高いところまで登って下がってまた登っていくという歩き方をするんです。しかし、クマはある程度のところまで登ったら次の山に移ることを考えるんです。7合目まで登ったときに斜面をどの勾配で切っていくと次の山へ登れるのかということは動物から教わったほうが早いんですよ。もっとも、そのことを考えながら後を追って歩かないと教わったことにはならないんだけど。」(姉崎『クマにあったらどうするかーアイヌ民族最後の狩人』2002:13)

それは、食べられる野菜の選び方や、キノコの栽培の技術などにもつながっている。

「アイヌの人たちがいろいろなものを食べているでしょう。これらは昔、クマが食べているのを見て、『クマが食べているんだから食べられる』って覚えたものが多いんです。池とかヤチ場にヤチレンゲが咲いているでしょう。あれと似ているんだけど、アイヌ語でカパトというハスのような花が咲く植物がある。葉っぱは水の上にあって、根は地面をはって、結構太い根で黒い皮を剥ぐと、中はダイコンとは違うけれどもダイコンのような白い身。それを食糧のない年にクマが水からあげて食っていたのを見た。『ああ、クマが食えるんだからいいだろうな』ということでアイヌの人も採って食べてきたの。食べてみたけどそれは渋くて食えるものではなくて、今度は切り干しカンナっていうダイコンをおろすカンナがあるでしょう。それで皮をむいて全部細切りにしてゆでて、ゆでてから今度は水だしするんです。川へつけておいてアクを取る。そうしたら、これはおいしいもんですよ。ダイコンとそうかわりなくて。私たちは小さい頃はずいぶん食べている。これらもやっぱりクマが食べていることから学んで食べているんです。母親からカパトの食べかたはクマが食べているのを見てそれをアイヌが真似したんだよと聞いたことがあるんです。」(姉崎『クマにあったらどうするかーアイヌ民族最後の狩人』 2002:16-17)

「カルスカル(キノコ狩り)なんかもクマから教わったものだね。秋になって、木材を伐った残りの枝や端材の下には昆虫がかくれているんです。昆虫を捕るためにクマは雨降りでも木の端材を転がす。クマはキノコを作るために転がすのではなく、昆虫を捕るために木を転がすんだけど、その後を歩くとものすごい量のキノコが出ます。落ちている木の枝の上をクマがただ歩いただけでもその後からキノコがでます。そしてクマが歩いていないところには一つも出てきません。それを応用したのがアイヌの人のカルスカルなんです。そしてニキク(木叩き)って木を叩くというのも、それはクマが踏んだり転がしたりするときの振動が必要だってことがわかったからです。それだって、アイヌの人たちが一回で覚えたんではない。何回か失敗を重ねたりして覚えたのだろうと思います。」(姉崎『クマにあったらどうするかーアイヌ民族最後の狩人』 2002:17-18)

そして、秋田県阿仁町打当のマタギの言である。

「山田長治さんが酔いながらつぶやいたことばが胸に深く残る。「クマって野郎は、いい野郎そ……」(田口 『マタギを追う旅ーブナ林の狩りと生活』1999:127)

「マタギは自然のなかで生きてきたどもしゃ。それでもマタギは人間だべ。家もあれば今だば車もあるんだし。やっぱりクマみてぇな獣がらすれば劣るもんなんだよ。マタギも文明の中に生きてるんだからな。自然の中に生きてるクマのごどは分からねぇごどの方がよけいだべしゃ」(田口 『マタギを追う旅ーブナ林の狩りと生活』1999:132)

「クマ獲りもそういつもいいごどばかりではおもしろぐねぇのっしゃ。こうして何度も逃がしてな、クマがらまた一つ教わって、山さ何度も通ってやっと獲れるがらおもしれぇし、獲物授かればありがてぇのっしゃ。」(田口『マタギを追う旅ーブナ林の狩りと生活』 1999:163)

狩猟民の人びと(マタギは狩猟者ではあるものの、大和民は雑穀(&米)に依存してきた民族なので狩猟民というには例外…異論は多々あるが(雑穀と米、どっちに依存?本当に依存?!とかのの証明は本当大変!))のおっしゃることをみてみると、狩猟の対象である動物を見下しているような態度をみることはほとんどない。そこには心的交流がある。対象から学ぶ態度がある。
では、そこにおける殺す(死)という行為とはどのようにとらえられているのだろうか。

「自分が殺されたのだと動物に思われると困るし、あるいはそうと知っていても許してくれるというふうでないと困る。そうして、狩人のところにまた来てくれるか、これからも仲間を送ってくれるように好意を抱いてくれなければ困る。この目的のために動物を中心とした儀式が行われる。この儀式の目的には2つある。死んだ動物の霊をなだめること、動物にあらゆる尊敬とできる限りの敬意のしるしを惜しみなく示して、この次も戻ってくるような気になってもらうことである」(ロット=ファルク『シベリアの狩猟儀礼』 1980[初出は1953]:186)

「アイヌの生活を支える狩猟の行為は、神々がアイヌの国に持ってきた贈り物(肉や皮)を受け取るとともに、神々の霊をその仮装から解いて、神の国に帰れるようにしてやることなのである。山から捕えてきて子供のように養った小熊が2~3歳になって独り立ちでカムイモシリ(神の国)に帰れるようになると、アイヌは神からの贈り物であるクマの肉を食べ、毛皮を受け取って、そのお礼として神の喜ばれるイナウ(木幣)をたて酒や色々な供物を供えて、その霊を神の国へ送り返し、益々の恩寵の深からんことを祈るのである。この儀式がカムイオマンテ(神送り)とかイヨマンテ(物送り)と呼ばれる儀式で、あやまって考えられている「偉い神を祀るためにクマを犠牲にする」儀式では決してないのである。」(小野 まさあき 『熊送り』1977年北海道沙流郡平取町二風谷録音,キングレコード株式会社)

―クマ神様を家に迎えたあと、どんな気持ちだったんですか。
「そうですね。迎えたカムイを大事にしていろいろなごちそうをたくさん供えるんですよ。そのカムイ(クマ)はアイヌのコタン(集落)に行ったら、『アイヌコタンはいいところだ。こうしていろいろなものを私の親に持って行きなさいよって私がもらってきたから、アイヌのコタンはいいところだ』っていうふうな気持ちで帰っていくそして次の神様(クマ)を迎えることになる。クマの神様というのは毛皮なりのおみやげを持ってまたアイヌのところへ来るんだって。そういう考え方が強かったと思います。」
―つまりホプニレ(魂送り)するときに、いろんなおいしいものを作ってみやげにしてカムイモシリ(神の国)へ帰る時に持たせてやる。そして向こうへ行ったらアイヌコタン(人間の村)に行ったらこんなにいい思いをして来たんだぞって伝えてもらうわけですね。
「そう。そしてその繰り返しをやるんだって。そういう考え方は強いと思います。」
-それで猟に行くということはクマの神様を出迎えに行くんだという気持ちで行くわけですね。
「そうだね。それだけやっているから、クマの方もカムイモシリでちゃんと伝えてくれると当然のように思っていたんではないか。そのくらい迎えるほうは真剣だったと思いますよ」(姉崎『クマにあったらどうするかーアイヌ民族最後の狩人』 2002:200-201)

ここにおけるわたし的な理解のポイントは、対象が「死んでいない」ととらえられているというところである。

→殺した
→クマが山から減った
→そのクマとの関係は死んだ時点でおしまい

ではないのである。

「シベリアでは魂は一般に動物の頭、もっと細かく言うと、そのにあるとされている。そして、このことは、狩人が捕らえた獲物から、なぜ鼻と鼻面の周辺部とを細心に保存したかを説明する。かれらは、身につけるかアムバルにしまうかするこれらの部分を、前もって切りとったあとでなければその剥皮を売らなかった。そのためにもちろん毛皮の商品価値は減ってしまうのであるが。ここでも意図した目的は2つある。まず、嗅覚は魂と同類と考えられている。犠牲から鼻を取り去ることで、狩人は自分が手を下した殺害に対する報復手段を獲物から奪って、仕返しを避けるのである。ハルヴァはフィンの狩人のクマの歌を引用している。≪私はクマの鼻を取る。私はその嗅覚を消し去ってやろう≫。その真意は≪私はその復讐を避ける≫ということである。しかし、これはものごとの一部分しか説明しない。敵の力を和らげたいという気持ちのほかに、動物の鼻とか、魂とかが宿る他の部分(ツングースの場合、有蹄動物にとっては首の毛)をもつことによって、狩人はその動物への積極的力や引き寄せる力を授かるのである。それを手放すということは≪運≫を逃がすことになる」(ロット=ファルク 『シベリアの狩猟儀礼』1980[初出は1953]:95)

「昔は鼻のだいぶ奥から毛皮を残して皮を剥いだんですよ。そして耳も毛皮を残して。それが時代が変わったというのは、シャモ(和人)の間に商品として出るようになったら鼻に文句がつくようになった。耳がない、鼻がないとその分安くなる。それならっていうことで鼻を付けるようになったんです。それでもアイヌの習慣がもう少し強いときは鼻をつけてカムイ・ホプニレした後で皮を剥いで、鼻を縫い付けて出したんですよ」(姉崎『クマにあったらどうするかーアイヌ民族最後の狩人』 2002:175-176)

「むかしは、ロシア人に売り渡される動物は、鼻面のまわりの皮が必ず剥ぎ取られていた。それというのも、前に述べたように、魂が宿っているのは、鼻と唇のところだからだ。ネギダールじゃ、トナカイの魂は、首の白い毛のところにあると思っているので、そこの白い毛をていねいにとっておき、それで自分の着物を飾る。よそ者に売り渡されるのは、けっきょく、知能と感情を剥ぎ取られた部分でしかない。」(ロット=ファルク 『シベリアの狩猟儀礼』1980[初出は1953]:171)

殺されたところで、その対象は死んでなどいない。その動物と狩人のあいだは穏便に調停され、それによって、またあらたな狩猟の対象としてそれが狩人の目の前にあらわれるよう、適切に送りだす必要がある。だからこそ、その相手が入口をおぼえてすぐに報復しにきたりしないよう(もてなしをする前に?)、その出し入れは特別な場所からおこなわれる。

東窓が神窓になるんですよ。マラプト(クマの頭)や肉の出し入れはそこからしました。そして外にはイナウチパ(祭壇)もちゃんとありました」(姉崎 2002:182-183)

動物の魂は生きている。ゆえにその身体の扱いには細心の注意をはらい、その魂をもてなし、順当に帰っていただき、また来てもらう。それは生きつづけている「向こう側」との関係である。それは自分自身が生きているうちに、そう遠くない未来に、再び会う関係である。そして、その魂に対する考え方は、人間に対しても敷衍される。

「火の神様を通して死者に引導が渡された後、いよいよ野辺の送りにはいります。家の西北の壁が破られて、そこに死者を送り出す別の出口が開かれます。死体は敷いてあったヤットゥィと呼ばれる茣蓙でていねいにくるまれて、特別に作られた紐でまかれます。さらに2本の棒に吊るされて、白木の墓標を先頭に導かれるようにして家から出ると、墓まではこばれていくのです。死体が家から外に出ると、壁に開けられた出口はふさがれます。」松居((著)小田(語り)『火の神(アぺフチカムイ)の懐にてーある古老が語ったアイヌのコスモロジー』1999:71―72)。

「死者が老人の場合などは、告辞の前に英雄叙事詩を聞かせることがあるが、これも死者が心残して立ち戻らぬよう心がける。動物神を送る祭りで最も盛大な祭りであるイヨマンテの夜には、語りの途中で打ち切り、神がその続きを聞きたくて再訪するのを願うのとは逆に、最後をきっちり締める。」(荻中『アイヌ文化への招待ー女性と口承文芸』2007:149)。

人間のほうは死後どこにいってどうやってまたアイヌコタンにもどって来るのかな…などと思ったら、またそういう民族誌をみつけて読まねばならない…。

故人の魂が帰り道を見つけて、家にまいもどってくることがないようにと、死体をふだんとはちがった口から外に出すのと同様、獲物も特別の入口から入れる。これは、動物の魂が狩人の後をつけてきた場合、その目をくらますためである。こうすれば、もし魂がやってきても、入口を見つけるすべがなく、あきらめて帰るだろうと思われているからである。アムール沿岸の諸族とアイヌは、クマを窓から入れる。クラシェニンニコフによれば、カムチャダールは、黒テンを≪小屋の上から下へ≫、すなわち、おそらく煙突から投げ入れた。ギリヤークのやり方も同じだった。ヤクートは、キツネとオオヤマネコを窓から投げ入れ、ラップは、獲物の動物や魚をテントの奥の口から入れる。女にはこの入口を使う権利がない。この入口は、獲物の搬入のためにしか用いられないので、用が終われば2度と使わない。獲者を入れると、ぴったりと閉じてしまうので、ここまでついてきた魂も、革とか木の壁に阻まれて入り込めない。」(ロット=ファルク『シベリアの狩猟儀礼』 1980[初出は1953]:167)

人であることが、生業にひきずられてその意味づけをなされる、ということにでもなろうか。
女性が狩猟の儀礼から遠ざけられるのは、女性もまた、「あちら側」と同じように生み出す力をもつ存在だから、とわたしは思う。※ちなみに人の出産はパキスタンの牧畜民のところでも「出産があったから他家への訪問はひかえた」といったことがみられた。

「日常生活では、かまどの崇拝はかまどの守り手である女の領分である。家の霊と家庭の火に≪食べさせる≫義務は女のものである(これはしばしば、花嫁が新しい住まいで最初に果たす行為である)。しかし、女は狩猟の供犠を行うことはできず、またたとえよその霊であっても火の仲だちによって食べさせてはならない。女と森の霊、かまどと≪野性≫は両立することができず、それらのあいだの関係は避けられねばならない」(ロット=ファルク『シベリアの狩猟儀礼』 1980[初出は1953]:78)

「マタギの狩りの作法は、厳重なことで知られている。伊藤さんがマタギ生活をしたころは、そうしたきびしい規制はなくなっていた。しかし、山に入るときは、産火は堅くきらわれ、死火は歓迎されたという。」(野添『マタギを生業にした人たち』 2006[初出は1995]:106)

獣の魂と同じように人の存在もまた、生きていても死んでいても生きつづけるという思想は、輪廻とかといった思想をさらに強靭なものにしてしまうのではないかな、と思うところがある。

そこでは、死をへることのない無生物に対してもまた、生きている思想の付与をしていることがみとめられる。

「火棚には父が作ったスワッ(炉鉤)が下がっているが、この炉鉤が細いひもでしばられていることがあった。これはスワッアドスレ(自在鉤)に呪術をさせるというまじないで、家の中で何か見つからない場合に、自在鉤をひもできつくしばり、失せ物が出てくるまで解かないものであった。炉鉤の神は家の中にいて、いつも家のなかの隅々まで見渡しておられるので、私の何々が見つからないのでそのありかを教えてほしい、それがみつかるまで解かないよ、しばられていて苦しかったら早く探しておくれ、というわけで、このように難題をふっかけてやると、きつくしばられて苦しくなった炉鉤の神は失せ物探しを手伝ってくれて、早くみつかるという。」(萱野 『アイヌ歳時記』2000:121-122)

「子供の私が立つときに間違って火棚にゴツンと頭をぶつけると、まわりの大人たちは、ああよかった、よかった、茂も火棚に頭がぶつかるほど大きくなった、と笑っていたものであった。頭をぶつけた私が目にいっぱい涙をためて痛さをこらえているのを見ていた祖母は、痛いのは火棚も同じなので、ぶつかったところへ息を吹きかけて、痛さを和らげてあげなさい、とアイヌ語でいった。」(萱野 『アイヌ歳時記』2000:120)

「アイヌ民族には、自分たちが何か悪事を働いても、それが間接的に神を苦しめることになり、神を穢むことになるのでそうした行為は厳に慎まなければならない、という精神がこめられている。したがってその信仰には、アイヌと神の相互扶助的な関係が存在しているということができる。」(小野まさあき 『熊送り』1977年北海道沙流郡平取町二風谷録音,キングレコード株式会社)

「相互扶助」というか、
「向こう側」と「こちら側」での、生命の共振、
暮らすということとは神と人との二人三脚、
というくらいモノにも生き物にも神をみいだし、その助けで日々を送るということなのだろう、とわたしなどは思う。

「食べる」という行為を支える営みは、人の最も日常かつ生きるための要であるがゆえに、人という存在を規定する力をもっている。そうして「民族」がかたちをとっていく。そうわたしは思っている。

「狩猟は、わずかではあるが、法体系が見出される最初の領域である。われわれは、シベリア諸族における義務と権利の非常に確固とした観念と、狩猟についてのほんものの法典の存在を確認した。もともと、人間の動物に対する関係は存在者の存在者に対する関係であって、契約は対等に結ばれたのである。シベリアでは、前もって契約者たちを義務と回避と禁止の、水も漏らさぬ網で包む契約の基礎に立たなければ、行動しないという非常に顕著な傾向が見受けられる。あらかじめ、人間はその行動も結果を予想することができるのである。家畜の群れへの攻撃、疫病、ある動物の種の集団的な移動は、暗黙の契約に違反したことの結果なのである。したがって人間は自分の行動を規制し、向かい合う存在者からもそのような規律を期待するのである。」(ロット=ファルク『シベリアの狩猟儀礼』 1980[初出は1953]:212)

こういった狩猟の世界とモンゴルにはつながりがあることが若干の文献で指摘されている。たとえば、頚椎のあつかいである。

「(カムイホプニレ[神の魂送り]の一環として)動物には頭骨とつながる第一関節がありますよね。この関節が猟の神となるので、宝物としてくじ引きでそれを引くんです。ちゃんとイナウ(御幣をつけて。昔はイナウの紐で引っ張ったんだけど我々の時代になってからはただの紐を付けたんです。そして管節の骨だけだと粗末になりやすいので、一緒に煮るときにだしになるように肉をけっこう付けたんです。それを引く人はみんな鉄砲撃ちなんですよ。猟運を引くわけですから。それを一つの楽しみとしてやっていました。今度は俺がクマを獲るんだって」(姉崎『クマにあったらどうするか』 2002:180)

「アイヌは、動物の頭蓋骨が失われない限りその再生は可能だと考えている」(ロット=ファルク『シベリアの狩猟儀礼』1980[初出は1953]:199)

アマンフズー:「頸椎の七つの骨のうち下顎骨にもっとも近い骨を指す。つまり、頭部を胴体とつなぐ最初の骨に相当する。解剖学では「環椎」と呼ばれる。英語ではアトラスAtlasと呼ばれ、ギリシャ神話で天球を肩にかつぐ巨人の名が充てられている。古今東西、頭蓋骨を支えるが故に重要な部分として認識されてきたのであろう」(小谷長『モンゴル草原の生活世界』 1996:146)

「アマンフズーの儀礼には地域的な差も見られるが、その基本は共通している。アマンフズーの骨のくぼみに獣脂や草を詰めて飾って、それを火にくべて祝詞を述べるという形式をとる。モンゴル国でなら、いろりの火に、内モンゴルでなら、かまどの火に、くべられる。」(小谷長『モンゴル草原の生活世界』 1996:147)

そして「ズルド」の儀礼である。

「皮をはがした後、次に内臓を取り分ける。屠畜解体は男性が担当すべき作業であるが、内臓の処理は女性が担当する。四つの胃、小腸、大腸、膵臓、脾臓、腎臓などなど、それぞれ別個に取り出す。通常このように別々に取り出すべき内臓を、ずるっとひとまとめにして取り出す特別な場合もある。一連につながって取り出した内臓は「ズルド」と呼ばれ、祖先祭祀などの儀礼の際に、樹木にかかげられる。そもそも狩猟において、ズルドは殺された当該の動物の魂が存在しているところであり、かならず射止めた本人に与えられなければならないとされる部分であった。野生動物再生のために、毛皮などとともにズルドを木にかかげる手続きがあったと思われる。たとえ家畜の場合でも、祖先祭祀のような特別な儀礼的殺しのときだけは、このように狩猟における再生の手続きが模倣される」(小谷長『モンゴル草原の生活世界』 1996:142-143)

モンゴルの屠畜は、オスからではなく、老畜から順にほふっていく、
そしてそこにおける去勢オスの生存率が、とても高いという特徴がある。
それは、家畜を養うに充分すぎる草があることからその牧畜がなりたっていることによるとされている。

再生の願いを「向こう側」に託すように、豊かな「向こう側」、恵みをもたらす「向こう側」がある前提からはじまった、モンゴルの牧畜なのかなぁとわたしなどは思っている。

そしてモンゴルと某それは宗教的に共鳴した歴史をもつわけなにょです。

しかしアイヌは、日本では少数民族かもしれないが、北に、シベリアに続く狩猟民族の南端の一つだと考えると、大きな民族の一部だなぁと思わされる。



そこから比較するユーラシアの西側の牧畜の起源とその展開の議論は、また考古学とか遺伝子変異とかいろいろいろいろおさえていなくちゃいけない文献があって、論じるのはとても大変!である!!

たとえばこの本などがスタートラインになります☆↓


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