ちょっとあるところ(まだ成果がでるかわからん)の宗教について調べていて、ちょっとかれらについて、肌身にせまる息遣いを誰か書き残してくださってないかな、と民族誌的記述のなかを掘り進んでいたら、なつかしいものがみえてきた。
わたしはいままで牧畜民(乾燥地)が好きで、いろいろ資料を読んできたのだが、なんとなくスンとなるので、あまり口をだすのをひかえている二大牧畜民がいる。某それ(うむ)とモンゴルである。
んで、みえてきた「なつかしいもの」を思って、やっぱりなぁ、やっぱり某それもこっちのほうなのかもな、と感慨をおぼえつつも、これ、議論になるのかなぁ、と読んで提示しなければならない膨大な資料を思い、ちょっと初動に二の足を踏んでいたところである。
「某それ」がちょっとどんづまりの地域の民族ということもあって、それについて書いておられる人々が、低地の牧畜民との比較とかあまりしていない、ようにみえたというところもあったというのもあり(ちょっと特集本での話です。読んでおられる人もおられるとは思っている)、ちょいと昔読んでいた民族の民族誌のことを雑談ちっくに書き散らしてみようと思う。
「狩猟民」の世界である。
狩猟民の世界が、「牧畜民」の世界の基層を構成してみえるときがあるのである。
こんなものをまたみるときがくるとは。
狩猟民の世界の分割のしかたは、わたしがそれまでみてきたトルコ系ペルシア系アラブ系の世界とはまったく異なってみえる。
狩猟民の宗教的な世界観の特徴をひとことでわたしが述べるとしたら、
それは「むこう側」と「こちら側」を縦に2つにわけたあいだでの、「対等」な「共鳴」、あるいは「循環」ではないかと思っている。
その「むこう側」には「一つの神」のような影がみえるときもあるが、
その手前には無数の日常の神がおり、
それらが「一つ」に収斂される可能性はみてとれない。
「一つの神」を信奉する世界にはなりえそうもない世界である。
神的世界の「むこう側」と俗世である「こちら側」…みたいな話は日本にもある、かも…とも思うのだが、神を叱責する、神格をその資格なしとしてひきずりおろす、神を脅していうことを聞かせる(「対等」)、といった態度が民間の日常にまで浸透してたかなぁ…と思うとちょっと確信がないところもあり、ま、文献を読んでうけた印象というだけの、大づかみな話で。
狩猟民の世界でまずわたしが興味深いのは、狩猟対象である動物を見下したり、ただの「獲物」やトロフィーとして扱ったりするところがなく、相手を尊敬していることがはっきりと書いてあるところかと思う。
※↑ハードカバー版のほうで引用しております。
それが観念的な「尊敬」ではないと思うのは、かれらには動物をみていることで、相手から学ぶふるまいがあるからである。
相手のふるまいと自分のふるまいとが、互いのあいだで共振し、共感につながっている。動物と人のあいだは、植物と人のあいだとは異なる部分が多い。
それは、食べられる野菜の選び方や、キノコの栽培の技術などにもつながっている。
そして、秋田県阿仁町打当のマタギの言である。
狩猟民の人びと(マタギは狩猟者ではあるものの、大和民は雑穀(&米)に依存してきた民族なので狩猟民というには例外…異論は多々あるが(雑穀と米、どっちに依存?本当に依存?!とかのの証明は本当大変!))のおっしゃることをみてみると、狩猟の対象である動物を見下しているような態度をみることはほとんどない。そこには心的交流がある。対象から学ぶ態度がある。
では、そこにおける殺す(死)という行為とはどのようにとらえられているのだろうか。
ここにおけるわたし的な理解のポイントは、対象が「死んでいない」ととらえられているというところである。
→殺した
→クマが山から減った
→そのクマとの関係は死んだ時点でおしまい
ではないのである。
殺されたところで、その対象は死んでなどいない。その動物と狩人のあいだは穏便に調停され、それによって、またあらたな狩猟の対象としてそれが狩人の目の前にあらわれるよう、適切に送りだす必要がある。だからこそ、その相手が入口をおぼえてすぐに報復しにきたりしないよう(もてなしをする前に?)、その出し入れは特別な場所からおこなわれる。
動物の魂は生きている。ゆえにその身体の扱いには細心の注意をはらい、その魂をもてなし、順当に帰っていただき、また来てもらう。それは生きつづけている「向こう側」との関係である。それは自分自身が生きているうちに、そう遠くない未来に、再び会う関係である。そして、その魂に対する考え方は、人間に対しても敷衍される。
人間のほうは死後どこにいってどうやってまたアイヌコタンにもどって来るのかな…などと思ったら、またそういう民族誌をみつけて読まねばならない…。
人であることが、生業にひきずられてその意味づけをなされる、ということにでもなろうか。
女性が狩猟の儀礼から遠ざけられるのは、女性もまた、「あちら側」と同じように生み出す力をもつ存在だから、とわたしは思う。※ちなみに人の出産はパキスタンの牧畜民のところでも「出産があったから他家への訪問はひかえた」といったことがみられた。
獣の魂と同じように人の存在もまた、生きていても死んでいても生きつづけるという思想は、輪廻とかといった思想をさらに強靭なものにしてしまうのではないかな、と思うところがある。
そこでは、死をへることのない無生物に対してもまた、生きている思想の付与をしていることがみとめられる。
「相互扶助」というか、
「向こう側」と「こちら側」での、生命の共振、
暮らすということとは神と人との二人三脚、
というくらいモノにも生き物にも神をみいだし、その助けで日々を送るということなのだろう、とわたしなどは思う。
「食べる」という行為を支える営みは、人の最も日常かつ生きるための要であるがゆえに、人という存在を規定する力をもっている。そうして「民族」がかたちをとっていく。そうわたしは思っている。
こういった狩猟の世界とモンゴルにはつながりがあることが若干の文献で指摘されている。たとえば、頚椎のあつかいである。
そして「ズルド」の儀礼である。
モンゴルの屠畜は、オスからではなく、老畜から順にほふっていく、
そしてそこにおける去勢オスの生存率が、とても高いという特徴がある。
それは、家畜を養うに充分すぎる草があることからその牧畜がなりたっていることによるとされている。
再生の願いを「向こう側」に託すように、豊かな「向こう側」、恵みをもたらす「向こう側」がある前提からはじまった、モンゴルの牧畜なのかなぁとわたしなどは思っている。
そしてモンゴルと某それは宗教的に共鳴した歴史をもつわけなにょです。
しかしアイヌは、日本では少数民族かもしれないが、北に、シベリアに続く狩猟民族の南端の一つだと考えると、大きな民族の一部だなぁと思わされる。
そこから比較するユーラシアの西側の牧畜の起源とその展開の議論は、また考古学とか遺伝子変異とかいろいろいろいろおさえていなくちゃいけない文献があって、論じるのはとても大変!である!!
たとえばこの本などがスタートラインになります☆↓