指導教員のはなしー未真相不知
いろんな先生方のことを実名でもお話させていただいてきたのにもかかわらず、指導教員を「指導教員」とだけしつづけてきたのにはちょっとだけわけがある。
指導教員は真相のわかりにくい事件の中核になり、その結果わたしは博士論文提出の前に指導教員を失った。
ことはその1年前くらいに予兆をみせてきた。
会議室に院生たちがあつめられ、なぞめいた告知がなされた。
脳細胞をフル回転させて聞いたのだがなにがなんだかさっぱりわからなかった。ともかくわたしが不出来だとかいう指摘とかじゃなくてよかったなぁ???くらいの認識でとりあえずそこをでた。指導教員はその場におられなかったので、指導教員とこれは何か関係があるのかを聞くために、わたしは後輩のひとりとつれだって指導教員の研究室に行くことにした。扉をノックしたものの、そもそもアポイントをとっていない訪問をすると怒り出す先生なので、
「そんなの知らないよ。もう~こっちは忙しいんだから!」
と研究室から叩きだされた。まあそうだろうとは思っていたので、外の廊下で後輩とふたりで、指導教員に関係なさそうならいいよね、といいあって別れた。
その後、ゼミでみる指導教員はどんどん痩せていかれた。
数か月後、指導教員によびだされたわたしは、指導教員に「「指導教員」をほかの先生に変えないか」といわれた。ええ~?癖のつよい先生ばかりの講座の教授陣のなかで、わたしからの指導教員への信頼は絶大だったので「いいえ?そんなことは?」と答えた。
その後に、指導教員をめぐって事件があったことを他の院生から聞いた。
そして指導教員は突然職をうしなわれた。
その日が来たとき、わたしは全く何もわからなかった。
大学側からの処分もなされたというが、わたしはわたしの知る指導教員のひととなりの全部を思い出しても、それが事実だなどとはわからなかった。
いまあの事件はどうなっているのかな。
そのときのわたしは、とにもかくにもちょっと迷いながらも(わたしの知っていることは少なすぎた)指導教員の研究室をたずねて、「先生、わたしは先生はそんなことをされてはいないと思います」と緊張しながらはっきりといった。すると、指導教員がこれまでにない緊張のとけた顔をされ、携帯番号を交換しましょうといわれるという謎展開にいたった。
それから大学業務から解放された指導教員は、暇をみつけては携帯で連絡をくださり、喫茶店をつかって博士論文の指導をしてくださった。「目次はそれだけをみれば全体がわかるように」「前後をちゃんとつなげて」とか「タイトルのもちあがり感の必要性」とか、基本といいえば基本の「う~ん」という視点をみっちりと教わった(細部や結論についての指摘はわたしの場合はなかったなぁ?「最初の3行で全部を書け」はよくきいたかも)。
春のはじめに青森で学会があり、その手伝いに駆り出されたわたしだったが、指導教員もいらっしゃると伺い、ちょっとでも指導教員の気晴らしになればなと思っていた。
指導教員はこられなかった。
もともと弱かった心臓にストレスをかけすぎたのだとか。
ことの一年前に、なぜアポイントもとっていないわたしたちが指導教員の研究室にかけこんで、わけのわからないこと(「なんかいま院生あつめられてわけのわからないことをいわれたんですがそれって先生と関係ありますか!」なんて出会いがしらにいわれたらわたしでも追い出したかも(笑))をいった理由を、あとで察された指導教員は、わたしと後輩に悪いことをしたなぁ、とご家族におっしゃっていたらしい。
なにかことがおこって、それが世間的にどうみえたって、真相は本人とごく身近なひとにぎりにしかわからない、
だったら、わたしも一人歩きだしたっていいじゃないか、誰になにをいわれたってそんなのどうしようもないんだから、なんて危険な人生の道行きを決めてしまったのは、このときのわたしの心の崩れようを自分ひとりで消化するには、あまりにもわたしがまだ未熟すぎた、若すぎた、というのもあったかもしれない。
ことの真相はわたしにはわからないし、人から聞いたことは「事実」としてここに書くことはできない。
わたしが経験したことはこのぐらいなのだ。
指導教員は、ご家族に院生のことをよくはなしておられたらしい。
わたしについておっしゃっておられたのは、やっぱり謎なひとことだった。
「Kumはすごいのに、変なところで遠慮する」
わからない!なにをおっしゃっておられるのかわからないっす、先生!!
だからわたしが昇天(下降かも?(笑))して、指導教員にその後にした研究の成果をみせびらかして(コラお前テンション高いぞ)、ほかの大教授(昇天)たちと御一緒に車座で世界について語り合うときがきたら(くるかな~)、そのときには、その意味をちょこっと教えてほしいのだ。
それを含めて、わたしはまだ研究をやめることができない。