自費?公費?ー文化人類学的調査の最底辺を行け!
はて。
こんなこと書いていいのかな。
みなさま、調査は自費ですか公費ですか。
「優秀な研究者は助成金ガッポガッポなので公費に決まってる」
という認識がおありになるのであれば、わたしはちょっと穴にはいりたいのでまわれ右!(ハイハイ👏)してくだされ!
わたしは修士のころから大変に助成金の申請が下手で、あまり助成金のご縁にあずかったことがない。ので、行きたいときに貯金(学振の名残、あるいはアルバイト)を切り崩して行き、バックパッカー仕込みの最底辺行(貧乏旅行)で行くことが多かった。
それで何がいいって、行きたいときに行って、帰りたいときに帰ってこれることである。
途中で助成金(落ちたけど!)の面接になれば弾丸で帰国し、また帰ってきたし、調査がうまくいかなければ切り上げて帰り、次の調査にそなえた。
在学中、調査地に遊びに行って見聞きしたことをゼミで話したら教授たちがざわざわしだし「そういうことは大学に報告してくれ」といわれたこともあった(わたしにとっては調査地は遊びにいくところだった…)。
それが公費だとできないのである。
調査がうまくいかないので場所(国)を変える、ことも事務に報告すればできるけど、いちいち「遊んでるんじゃないの」と監査を受けることなどを考えると滅入ってしまう。行き帰りのチケットの領収証の提出をさせられるのも、あとで日程変更できる高額のチケットならいいのかもしれないけど、安いものを買っているとそれもできない。そもそも帰る便が出る場所を変えること…まではしたことないけど事務でできるのか?いずれにせよ安いチケットで行こうとしていたらアウトである。
それでうまくいかない土地に無理やりかじりついて、現地の人も私もどちらも不幸になることになることがある。
費用がでるのは助かるが、文化人類学の調査という博打要素のつよいものをあまりしばりつけないでほしいなというのは、まあ変なお願いなんだろうなと思う。それは税金であることがほとんどなわけだし。
公費で行かないわたしは、調査地が中国のときは船(鑑真と燕京)の2等(オープンチケット)と硬座(列車)で行った。そのころの中国の列車は上海からウルムチまで3泊4日かかった(今はもうちょっと速かったはず)。そういえば修士・博士のころに上海からウルムチへの道のりを、飛行機だの寝台だので行ったおぼえはついぞない。
エジプトに調査に行ったときには、日本の友人や家族には長期で行くといってでてきたのに、無残にも初盤で「もう…無理!!!」となって、そのときにいた安宿のスタッフに安い飛行機チケットを買ってもらったのだが(日本からエジプトの遠さが私を追い込んで調査をさせてくれると思っていたのだが、その波をわたしはのりこえた)、そうしたらそれがほんの数時間後の便だったので、階段をかけおりタクシーを呼びとめ、エジプトエアの後部座席でこんこんと眠りこけ、次の日にはもう日本にいて、その近さに呆然とした。
そして誰にも帰国したことを教えないまま、アパートで大学図書館と地域の図書館に日参し、貸出冊数の限界まで本を借りコピーを取り分厚い民族誌は3~4日かけてよみつづけ、答えを探した。
誰にも会いたくなかった。
フィールドに敗北したなどとは。
今考えれば、その旅も、事務に出張報告や予算の概算やチケットの払い戻しや戻せないやなんやかやがあり、まっとうに生きている人(事務員さん…)にちくちくいわれるやりとりなどをつづけてなどいたとしたら、研究のほうの初動はもっと遅れていたと思う。というか、おこせていたかどうか自信がない。
今思うと、このときの「あわわわ」で本を読み続けたときが人生で一番本に没頭していた時期のような気がする。とても充実していた。積みあがる本に対するおそれがまったくなかった。答えをどうしても探したくて必死だった。
だいたい片道切符で行っていた。
エジプトに行ったこのチケットは、確か上海からウルムチに行き、クルグズスタンとのあいだの国境を陸路で越え、ビシュケクからモスクワ経由でカイロに行くものだった。なんとか安いチケットを探して行っていたのだけれど(自腹だし)、公費だと事務に「上海で何するんですか」とか「ウルムチとビシュケクのあいだは何の調査をするんですか」なんて聞かれることは必至である(そもそも認められないと思う。だいたい片道だし…)。そのうえ、せっかくついたエジプトで滞在の途中に脱落してこっそり帰国(「誰にもあいたくない」)、なんてできるはずがないのである。
あれ?わたし贅沢だった?しかし「贅沢」の基準がなんかおかしいぞ。
トルコでは想像を絶する生のイスラムに出会い続け、当惑したわたしは結構現実逃避をしていた。それでも持ってきた和訳『コーラン』を読んだり井筒俊彦を読んだりして、少しずつ論として立ち上げる切り口をみつけ、でももしかしたら「そう」ではない可能性もあるのではないかと自分を疑いつづけ、いや、「そう」ではない可能性があったとしても、なんかもう内臓が口から出そうで、「もう、無理」となったときに、帰った。そっちも片道切符だった(帰りの切符だけ国際学会によるフォローいただきました。ありがたい)。そのときは、帰国した後でも「もう、無理だったよね。そうだよね」と記憶を反芻しつづけ、アパートでもぶったおれていた記憶がある。
パキスタンのときの予備調査は、またしても神戸(大阪)からの船で上海、上海からウルムチ、ウルムチからイスラマバードというこれまた片道の飛行機で行った。
これまた自腹行で、節約に次ぐ節約で、雪のふりしきるウルムチの空港のそばで泊まったホテルが、風呂場でお湯のでた最後のホテルだったなぁとなぜかいまでも覚えている(パキスタンでは水風呂だけ。まあ雪はウルムチより少ないんだけどさぁ)。
イスラマバードでは地元の民族博物館に調査の手がかりに対する教えをこうたのだが、そこでせっかく得た知己は、ススト(中国との国境の集落)で足止めをくったり、軍のヘリで足止めから脱出したりしているうちに全部捨てることになってしまい(意欲減退)、結局それまで何の関係もなかったけどもメンタルで意気投合してしまった全然違う土地の大家族の家長の家が調査世帯になった。その滞在時間わずかに30分。
そこからイランにも予備調査にいくつもりでいたのにイスラマバードでビザがとれなかったのでその予備調査行もそこでご破算にして帰国している。
帰国便は、ネットカフェで検索して安かったカラチ(パキスタン)→コロンボ(スリランカ)、コロンボ→関空というチケットだった。コロンボの空港ではやたら紅茶の缶が売られていたのをおぼえている。
行きにオープンチケットで買った神戸(大阪)ー上海の船便は、時々復路のチケットを無駄にしてしまっていた。このときも無駄になっていたかもしれない。よく覚えていない。
パキスタンの本調査からの帰国も、自分に何度も問いかけ、ノートを読みなおし、これ以上のことを集めるのはできるのかできないのかと自問自答し、その問いかけが限界に達したときに帰国した。
これも公費ではなかったので、問いかけに事務はかかわっていない(企業による共同研究講座からの支援を一部賜りました。ありがたい!)。
公費になるとなにがおこるかというと、できることが他にあるのに延長できず(帰りのチケットが最初からある)、できることがもうないのにいつづけなければいけないという無駄時間がうみだされることではないかと思う。
在学中に先輩が2年の留学の助成金を得て、「でも途中で帰れないんだよ」とおっしゃっていた(ぼやいていた)のを聞いたことがあるのだが、それの何が不満なのか、たくさんお金もらっていくのに、と思っていた。それがそういうことなのか、と気づいたのは最近である(遅~い)。
わたしは別に事務の監視にしばられてはこなかったが、現地で研究を忘れて「遊んで(観光?)」いた記憶はほとんどない。なぜなら一番楽しいことが研究だったからである。
今になって幸福だったなぁと思えるのは、うまくいかないときには早急に切り上げて計画の立て直しを図ることができたこと、調査をやめるタイミングも、いつも自分の心にだけ聞いて決めることができたこと、ということになる。
本当に、人間相手のことだし、私も私を理解してくれて、先の道を照らしてくれる人があらわれてくれなければ先には進めない。うまくいかないことのほうが多いのである。なのに出発前に「大収穫は確定済み」のような計画を提出させられ、そのとおりに動かされるというのはありなのだろうか。
わたしのような偏った変な人間ばかりということはないとは思うのだが、文化人類学の長期調査とお金ってどういうシステムだといいのだろうか。
たとえば「〇〇〇円あげるから2年以内にそれで自由に成果をあげろ」だとどうだろうか。
でも「成果」のプレッシャーに自滅しそうな気もするなぁ。
「成果」の基準はどうなるのだろうか。
〇〇〇円を本当に研究にだけ使いましたか?という監視がなくとも全員上手につかえるかだろうか。
途中でギブアップしたら、その「価値」を正しくはかれるのだろうか。
やっぱり〇〇〇円をわたして「2年以内にわたしを面白がらせてくださいね…」というアルカイックスマイルの教授(気は合う)が待ち構えているのが一番いい圧力になるのでは、というのがわたしのとりあえずの答えになる(採用しなくていいです)。