文化人類学的研究をはじめるまえのわたしの海外
わたしの初めての海外は、オーストラリアだった。
中学生のころ、市が姉妹都市提携をしていた市に、友好使節団(中学生)派遣という名目で行った。
市内15校各校から1人ずつが選ばれ、計15名での派遣がおこなわれたのだが、うちの校から応募したのはたったの2人。派遣が市の初めてのこころみだったため、まったく知名度がなかったことが功を奏した。わたしが選ばれた理由は、英語のスピーキングの勉強をしていたことだったらしい。
あのころ、わたしは学校でいじめられていた。
まあ、ずれてるし、空気読まないし、流行にのらないし、それはいまもそのままなので、その何が悪い。
だからわたしは、旅行で学校をでられることが嬉しくて、ただそれだけだった。
しかし、初めての外国は衝撃だった。
外国って、本当にあるんだ。それに尽きる。
そこにいるのは全員外国人で、白人で(まあいろいろな人がいるのだが、大多数は)、お店のポップに書いてあるのは英語だけで、
今まであったあたりまえがどこにもないのに、
日常生活と呼べるものが、そこにもあった。
本当に、あるんだ。
わたしはそこでホームステイをしたのだが、
そのご家庭には金髪の背の高い美しい中学生の少年がいたのだが、
学校にお菓子を持っていっていいだとぅ?
アルバイトしてもよいだとぅ?
そんな美しい服装で学校に行っていいだとぅ?
まな板のように重いセーラー服をひきずって教室に雁首並べていた側からすると、
そんなばかな
しかなかった。
これは我慢しなければならないことだと思っていた。
そうじゃなかった。
こんなもんなのだと思っていた。
そうじゃなかった。
狭い部屋が普通なのだと思っていた。
そうじゃなかった。
このとき、徹底的に日常生活が違う、違っていい、ということに魅せられた。
あたりまえはあたりまえじゃなかったということに魅せられた。
外国に住んでみたいと思った。
ここで学校に行き、食事をとり、遊びに行き
日本とは違うということに頭のてっぺんまでつかってみたいと思った。
高校生になって、わたしはひとりTOEFLの勉強をはじめた。
親にひけらかすに充分な点数をとり、
「大学はオーストラリアに留学をしたい」といった。
「そんな金はない」
終わった。
悔しい~。
親に金銭を頼るからだめなんだよ!
アルバイトだ!
自分の金だ!
自分で稼いだ金なら文句ないだろう!
必然留学は断念、英語圏も遠ざかり(渡航費も滞在費も高い)、
「中国にいってみようかな、近いし」
というわけのわからないことになってきた。
親は心配して「現地に知り合いをみつけろ」とか面倒なことをいうのだが、
2度目の旅の際、親の目をぬすんで長距離列車にのり
甘粛省は敦煌をめざした。
石窟があるとか井上靖とかその程度の知識だったと思う。
でも心に残ったのは石窟のかたわらにひろがっていた砂漠だった。
広い!
みわたすかぎりの砂、
落ちていく夕陽、
こんな風景のなかで育っていたら、どんな人間になれただろう。
あんな狭い教室も、重くて臭い制服も、いじめも、のりも、流行もなんにもなかったら
3度目の中国行きの際、とうとうたどりついた中国最西端の新疆ウイグル自治区で、わたしは出会ってしまった。
理解不能なほど人間のありかたがずれるという経験をもたらしてくれた、かれらに。
ウイグル族。
なんで。
なんでこんなに違うの。
なんでこんなに違っていいってわたしはそれまで知らなかったの。
それからわたしはアルバイトに精をだし、そのころはまだあまり高額ではなかった中国の留学(短期)費用をため、新疆大学に留学し(日本の大学は休学した)、中国語とウイグル語を学びだす。
そういえばあれから一度も英語圏をふりかえっていない。