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『アウシュヴィッツの小さな厩番』(ヘンリー・オースター/著、デクスター・フォード/著、大沢章子/訳 新潮社)

これは是非、一度読んでおいた方がいい。

第二次世界大戦中のドイツがユダヤ人絶滅政策を進めていた歴史的事実はもちろん知っていたが、ユダヤ人の人権剥奪や強制収容所での扱われ方などが具体的にどのようであったのかまでは、正直あまりよく知らなかった。せいぜい小学生の頃、児童向けに書かれたアンネ・フランクの伝記まんがを読んだ程度だ。
本書は、第二次世界大戦中の凄惨なホロコーストを生き延びたドイツ系ユダヤ人の体験を綴った手記である。
歴史上の出来事を個人的な物語のレベルに落とし込むことで、一般的概念にとどまっていた事象の中に潜む苛烈さ、残忍さ、そして被害者の思考や感情の変化などをよりリアルに感じることができる。
また、自分が本書を読んで驚いたのは、70年も昔の出来事をここまで克明に記憶できるものなのか、ということであった。複雑性PTSDを起こすほどの強烈な記憶だったのかもしれないが、それでも自らに降りかかった11年間の迫害の様子を、理路整然と、かつ臨場感あふれる文章をもって浮かび上がらせる技量には脱帽する。
それだけに、特に前半を読み進めるのは多少の精神力を要した。
主旨からして、本書の中ではもちろんナチ党がユダヤ人に対して行った暴力的行為の数々が羅列されているわけで、初読の際は「解放まだー…? もうそろそろ終戦じゃないのー…?」と頭の中で呟きながら、一方で喉の奥で乾いた笑いが出てくるばかりだった。それだけ、ナチ党の行動原理がどうにも理解できなかったのである。敢えて言わせてもらうが、「ナチ党は国家ぐるみの半グレ集団か?」という思いばかりが頭に浮かんだ。それはそれで半グレ集団に失礼だろうか。譬えるなら、言いがかりをつけて壮絶な集団暴力をかましておいてから「先生や親にチクんじゃねーぞ」と息巻く加害者のような精神性を感じるのである。まあ要するに、「めっちゃカッコ悪っ」ということだ。

一通り読んでからまた読み直していって、次第に自分の考えは≪著者が生き延びられた要因は何だったのか≫という点に集中するようになった。
飢餓や病気に対する身体の抵抗力、また著者自身も言及していたようなほんの少しの幸運に何度も恵まれたこともあるのだろうが、それらに加え、彼が状況をつかんで機転を利かせる能力を具えていたこと、馬の世話も含め手足を動かすような何らかの仕事を進んで行なっていたこと、そして、≪ずっと先の、見えない≫未来でなく、≪すぐ目の前の≫未来を見据えて生きていたことが大きかったのではないか。あと数か月、あと1週間、あと1日は生きられるかもしれない、と。小さな目標を積み上げて大きな目標を実現していくようなものだ。
そして何より、今にも消えてなくなりそうな自尊心が、完全には消えなかったこと。ナチ党があれだけ躍起になって手の込んだ卑劣な所業を加えてきても最後まで屈しなかったのは、ひとえに自分が自分でいられたことを立派に証明している。人間の持つ底力というものに圧倒される思いだ。

また自分はこうも思う。この本はむしろ、著者が生き延びた後からの場面がより真価を発揮しているのかもしれない、と。解放されて良かった、という時点で終わりではないのだ。
国家による信じられない暴力、何の罪もない人が尊厳を奪われる様子、勿論それらから目をそらすわけにはいかないが、自由になった人が徐々に人間性を取り戻していく、人生の主導権を手にしていく過程には、非常に心を惹かれた。
そして最終章で、著者は自らを迫害した祖国に、70年ぶりに再び降り立つ決意をする。この場面のために、それまでのすべては書かれたのだと思わずにはいられない。生まれ故郷のケルンの人々を前にして、加害者・被害者双方の≪寛容≫について説いた時、あたかも著者の心の中で止まっていた時計の針がカチリと動いたような、そんなイメージが浮かぶ。

寛容であることは、口で言うほど簡単ではない。人間には受け容れられないものはどうしたってある。それに、≪我々≫のために≪彼ら≫を排除する行動は、どちらかというと本能に近いものがある気がする。
しかし、我々人間は長い歴史の中でよりよい生活を、未来を創り出すために脳を発達させてきたのではなかったか。特に判断力、理解力、感情制御力を司る前頭葉。寛容の精神を発揮するために、できることはあるのではないか。それを常に考え続けることは重要だ。

個人的には、この場面に立ち会うために、本書を最後まで読んでほしいと思う。



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