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クレバーなアーティストと、アーティストの品について

物心ついた頃からクレバーなアーティストがほんと好きで、なんなら音楽性そのものよりも、クレバーであるかどうかによって聴き続けるかどうかが決まっちゃうところが自分にはある。ミック・ジャガーしかり、真心ブラザーズのYO-KINGしかり。ヨーキンの「機嫌がいい人って、それだけで偉いんだよ。生きてると自然に機嫌が悪くなっちゃうのが人間だから」という発言(2020年10月)は、音楽サイトのインタビューに答える音楽家の領域を超えて、なんというか、哲学的な洞察の域に達している。「機嫌をよくしようと思ったら、最初はがんばらないといけないしね」。ちゃらんぽらんのように見えて、なんて真摯な発言なんだろう。

逆にクレバーではないアーティストというのも一方でいて、誰とは言わないけれど、クレバーでない方が得てして瞬間風速的にマキシマムな数値が出たりする。つまり売れるわけ。でも往々にして長持ちしない。飽きられちゃうのも早いんだよね、クレバーじゃないと。それはそれで音楽史に名を残すことができるのでいいのかもしれないけれど、いちミュージシャンとしては、好きな音楽を長く続けて、それをリスナーに聴き続けてもらうことがやっぱり幸福論だと思うので、クレバーであることはそれなりに大事な要件なんだと思う。そういう聴き方を自分はしている、ということかもしれない。音楽性と人物性の間を行ったり来たりしているうちに「スキ」が定まってくる感じ。

で、クレバーであることに加えてもう一つ、大事な要件があるかもしれない。それはそのアーティストが持っている「品」のようなもの。ロック、なんだけど品は大事。ギリギリのところで品のあるなしがそのアーティストの命運を分けることってすごくありそうな。品は取ってつけられるものではないので、つまりはそのアーティストの人間性そのものにかかってくることになる。ロックという下品な音楽をやっていても、もうグリグリにお下劣なステージアクションで、エロス爆発の詞をエロエロに歌っていても、どこか端正な品を感じさせるアーティストは多い。たとえばスティーブン・タイラーとか。品は大事。

森高千里のライブは品の集合体だ。17歳の間奏でフリフリのミニスカートでクルッと一周回ってみせる有名な場面も、品がなければ目も当てられないはずだ。また各曲が終わった後に深々と、いささか深すぎるくらいに頭を下げてしばらく停止、なかなか頭を上げないのも、書く字がシュッとしてきれいなことも、品がいい、あるいは品格があるという言葉で表現できるものだろう。品があるアーティストのライブでは観客も襟をただす。森高のライブがいつも楽しく盛り上がるのは一見ただひたすら楽しいばかりのステージ上に、実は凛とした緊張感をはらんだ品が横溢しているからだ。客席も思いっきりそれに応える。彼らもまた実に上品な品を心中秘めてわーわー賑やかに盛り上がる真剣勝負な人たちだ。心の底から尊敬できる。

育ちにまつわる無意識的な上品な品格の発露がなされる、熱いステージ上のヒートアップに、これまた老錬で真摯でびっくりするくらい純粋な思いを乗せてのヒートで応えるファン。まじで両者が奇跡的に切り結ぶあの瞬間。そんな空間時間体感が、1年を超える長い全国ツアー「今度はモアベターよ!」の終盤は右肩上がりで毎回、現出している。残り3回、見逃すわけにはいかない。

ところでモリタカはクレバーなのか。その確証をまだ私は掴むには至っていない。あれだけ個性的な詞をつくる人なんだからたぶんそうなんだと思うのだけど。でも少なくとも「天然」であることはライブに行くとわかる。すぐわかる。そこから導き出されるのは「育ちがいいんだな、まっすぐに育ったのだろう」という感想だ。そしてそれは、たいそういとしく、とてもとても素敵すぎることであるのは間違いない。

2024/06/17

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