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想像=創造

自分と他者とを比較すると、自分の足りないと思われる点ばかりに意識が向きがちです。そうしてるうちに、どんどん自分のよい点が埋もれて見えなくなってしまいます。

他者より自分は優れているとすることも、結局、こころはいつも怯えています。同じことです。

他者と自分を比較している以上、そこに素直に認められるフラットな自分らしさは、見えづらく聞こえづらく感じられなくなってしまうでしょう。


・なりたい自分になる
今現在の自分から、理想の自分になるために、どうすればいいでしょうか。

そのために、あれもしなければいけない、これもしなければいけない。でも必要なあれもこれも、時間すらもない。結局、仕方がないと、頭の中がないない尽くしになってしまうかもしれません。

そうして頭を抱えて何もできずに時は過ぎ、ああやっぱり私には無理だと決めつけてしまった。

どうせ私なんかそんなものと、自分で自分の限界を決めて、自らに都合よく、社会通念の枠に閉じ込めてしまうパターンに戻ってしまった。

あるいは、他者や世界、またはそんな自分自身を責めては、傷ついた自分を慰める理由を探して人間を放浪する、自己正当化難民になっちゃった。

ある意味、楽で、安全だったろう選択でした。
結果、そこから何を発見してきたでしょうか。

何も変わらない私。いくら外を探しても、素敵に映るだろう他者や世界はあっても、理想の自分は見つかりませんでした。

では、その彷徨い続ける身体は、一体、誰だったでしょうか。その時々の、等身大の自分自身以外にありえませんでした。

そんな筋書きの決まりきった、予定調和の物語にも、心のどこかでは、もう、飽きを感じていないでしょうか。そんなことをしていても、いつになっても理想の自分になどなれそうにありません。

平成から令和へ。時は移り行きます。

事実。すべてのものごとは、絶えず変化していきます。

焦る。なりたい自分になるために、何かとてつもなく特別なことをする必要があるのでしょうか。

どうでしょうか。



・他者との比較をやめる
何かを始める前に、今自分のために役に立って無いことをすっぱりやめてみるのも一理ありです。

思い切る。

それだけでかなりの浪費エネルギー削減になります。すると余裕ができます。余裕ができれば、視界が開け、方向性の選択肢は、確実に増えます。

他者との比較で失われたかにみえた、まるで、それであたりまえかのように埋もれてしまい、価値をも見出せなくなってしまっている自分自身を発見して、過不足なく、認めてあげたいのです。

億劫。

そうですね。そもそも自分自身をみつめるには、相当、勇気が要ります。

事実。この世の中で誰一人として、明日を経験したことのある人は居ません。誰もが一律に、未経験な瞬間瞬間に、その生身を晒しています。失敗なんかないんです。いつでも、誰にとっても等しく本番です。

事実。この世界中で誰一人として、私の代わりになってくれる人は存在しません。だから、自分の足で立ち、ものを見て聞いて、考え、その身で感じて、一歩踏み出す人は、誰もがみんな、それぞれ違った、勇者なんです。



・今立つ場所から、一歩先へ
さて、目の前には、エベレスト山脈のような大きな山が映っているしれません。これを一気に登り切るなど、どんな勇者でも、無理です。

何かとてつもない、特別なことをする必要なんてありません。まだ他者の視線が気になりますか。

まあ、そんな自分も居るんだねって、否定したり抑圧したりに、エネルギーを浪費する選択はもう止めて、その事実だけを過不足なく認めてやる。

その上で、どうせなら肩肘張らずに、無理なく楽しみながら、今できる方法を考えてみましょう。

一段では越えられない壁も、どうでしょう?

想像してみてくださいね。

例えば、100に分割しちゃえば、ひとつずつの段差が、小さい小さい100段の階段になります。ゴールはそのままで。どうせいつかたどり着く、目指す先なんだから、気楽にやっていきましょう。

忘れないでくださいね。他者との比較は、もう一切要りません。

思い出させてしまいましたか。いいんです。誰だって、最初は何一つ、こわくてこわくて、その場で泣き叫ぶしかできなかった。赤ん坊でした。

でももう、いつのまにかすっかり自分を守る術をマスターした、立派に悩める人間でしたね。あたりまえすぎて、すっかりお忘れかもしれません。

自分で自らのこどもの部分に言い聞かせてあげてください。もう大丈夫って。いつでもそうできるはずです。だから、何度でもまた、立ち上がれます。


・想像=創造
私の隣にいるあの人もこの人も、さては今、私の頭の中をよぎるあの人もこの人も、実はすべての人が、私と同じように、それぞれの人生を真剣に思い悩み、人間(じんかん)に生きています。

これは、私が敬愛する一人、米国の精神科医ジャンポルスキー博士の言葉ですが、人は愛を与えようとしているか、困っているか、そのどちらかなのだ、という捉え方があります。万人に使える、智恵です。使えるものは遠慮なく使いましょう。

行き詰まった時、ひとつ深呼吸をして、そんな風にも、自分自身が住む世界と、その世界の住人を想像(=創造)してみてくださいね。

今までと違う道を選び歩み出したなら、結果として、たどり着く景色は確実に変わっていきます。まるで、この日本の美しい四季の移ろいの様に。

その変化を、誰でもない自分自身の感覚で、よく味わってみてください。

事実。意識しようがしまいが、身体は、常にその瞬間の変化を感覚して素直に反応し、揺らぎ続けています。まるで、いつかのこどものように。

くじけたり、くじけそうになったら、人は誰でも、いつでも立ち止まり、周りを見渡して確認することができます。そこには、私以外のたくさんの人々が、人間で、一所懸命ただ生きている。

感動したり、刺激になったり、参考程度にお手本にしても、比較はしない。むしろ、へえ、あなたはそうなんだねって、その違いを楽しむ私が、私だけの物語の主人公です。

私は私、他者は他者。もしも今この瞬間、互いの歩む道が交わることがあれば、それはとってもありがたくて素晴らしいこと。もしそうでなかったとしても、それはそれで、問題などまったくありません。

そうして、いつ、どこで、誰と、どのように時間を過ごそうが、空間を共有しようが、何を選択しようがしまいが、いずれ平等に終いがやって来ます。これも、シンプルな事実です。

その最期の時に、世界中の誰一人として、後悔したい人など、居ないはずです。

どのような役割を担い、それらすべての役割を終えたとしても、いつも、いつでも、唯一無二であるひとりの人として、笑っていてくださいね。

そんな人の勇姿を見て、その人となりを物語る背中を見て、いつかどこかで、他の誰かも、きっと自らの足で自らの道を、歩み出しますから。


#ではまた明日


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