イタリアの秘境を行く #5 アブルッツォ編 山に抱かれて
山間の旅籠「GINO」
気になっていた山の都市があった。スルモナ。アブルッツォ州ラクイラ県にあり、聖なる山-グランサッソとマイエラに近い。人口24,000人ほどで標高約400mの小都市だ。検索しても、ウィキペでもほぼ情報は出てこない。しかし雑誌「イタリア好き」のたった1枚の写真が、行くのに十分なインパクトだった。
スルモナでまず目指したのも「イタリア好き」で紹介されていたレストラン「GINO」。予約までにイタリアらしいやり取りがあった。この店はランチのみの営業で、まずはHPからランチと宿泊、2名で予約を試みたものの連絡なし。そのうち、マルケ州でお世話になった由紀子さんの合流が決まり、彼女がドライバーもしてくれることに。彼女がGINOに電話連絡してくれることになった。「一泊だと宿泊はダメって言ってますー」。がしかし、彼女からの連絡と同時ぐらいに店からOKの返信があった。一人増えても大丈夫か再度メッセージを入れたところ、今度はすぐにOKの連絡あり。「メールの人と電話にでた人が違うんだろーねー。ま、いいって返信してきたから行っちゃおう」。結果はまったく問題なしで、イタリアあるある。
地方の街一番的店のメニューを見るのは楽しい。私たちがまず満場一致で選んだ前菜は、仔羊の内臓肉の煮込み「コラテッラ」とスルモナ名物の赤ニンニクの茎のマリネ「ゾッレ」。コラテッラは、店や場所によって使用する部位や調理法も違うのだそうで、似た料理が他州にもある。マルケ在住の由紀子さんがマルケバージョンとの違いを知ろうと内容をつぶさに聞く。「GINO」では、レバー、ハツ、食道部分を使用し、味付けは玉ねぎとオリーブオイルのみ。かなりたっぷりの玉ねぎのとろりとした自然な甘みがコリコリの食感の内臓を食べるごとにジュワジュワっと滲み出る。内臓は抜群の鮮度。「ゾッレ」はニンニクの茎から上を茹でて、ビネガーとオイルで漬け込んでいる。「コラテッラ」と一緒に食べてもまたよい。
プリモピアットは、迷った末にポルッチーニのリゾット。セコンドは、バッカラ(干し鱈)にした。
旅行客も街の住民も、みな自分のペースで思い思いに食事の時間を楽しめる店。GINOはずっとこんな店であったのだろうし、10年後とかにまたここに戻ってきても、希望的な観測も含めてそんな店であり続けていそうだ。現在GINOのレストランは昼だけの営業。以前は夜も営業していたけれど、今は宿やエノガストロノミアの店の運営もあり、人手の問題などでレストラン営業は昼だけにしたのだそうだ。
ふらっと行った隣村、パチェントロとマドンナのことなど
昼食を終え、GINOの経営する宿にチェックインすると、ワイナリー ファットリア・デル・オルソで、いいところだから行ってみるといいよと教えて貰った隣村のパチェントロへ散歩に行くことにした。
隣と言っても車で15分ほど。小さなかわいい山間のこの村は「イタリアの最も美しい村」に認定されている。住むのは困難なのだろうけれど、山肌に張り付いたような家の隙間から覗く景色はどこもかしこも美しすぎる。至る所に細い階段道があり、猫になった気分で迷い込むように歩くのが楽しい。
サンタ・マリア・マッジョーレ協会前の村の広場は、観光客のいない今の時期も住人と思われる人々で賑わっていた。どうやら旅行客らしい我々アジア人3人は広場で話題になっていたらしい。まずバンダナをしたオッサン(←なぜか関西風に見えて中川家の礼二にしか見えなくなった。もちろんイタリア人)礼二が、話しかけてきた。「イタリアは初めてなんかい。なんでここきてん?でも、ええやろー。イタリアで一番美しい村やしな。夏はゴッツ観光客来るわ」。と関西弁では喋ってないけれど、なぜか関西弁が聞こえそうな雰囲気。しかもイタリア語からどういうモードか時々英語を挟んでくる。笑える。実は礼二には、その後またばったり街中で再会。私たちが美味しいレストランがあると聞いたのを覚えていたようで、「あそこ」と指をさし立ち去っていった。「Taverna de li Caldora」。ビブグルマンの店の模様。すでにオフシーズンの休暇期間に入っていたようだが、もしまた戻ってくることがあったらここにしよう。
イタリアの中川家礼二の後に私たちに話しかけてきたのが、これまた漫画みたいなド派手なショッキングピンクのジャケットのおばちゃん。もう一目でそれは上沼恵美子だった。今度はエミコ?「あんたたち、さっき広場にいたでしょー。どこ行くのか見てたのよー。これから一緒にアペリティーボしない?」すでにフレンドリーを超えた、何の好奇心か。私たちは捕らえられそうだった。彼女の連れ合いでもなかったおっさんたちもそこに入ってきて「プロセッコ飲もう、プロセッコ」と言い出しその奇妙な盛り上がりに一瞬持っていかれそうになったが、冷静な千夏さんの「帰れなくなる。やめよう」の一言にもっともと丁重にお断りした。
宿に戻ると、私たちの貸切のようなフロアのちょっとした寛ぎスペースで、オルソに貰ったワインと畑に残っていたブドウ、ロレート・アプルティーノで買ったサラミなどで翌日に備えて軽く夕食を済ませることにした。
ファットリア・デル・オルソのワインは、たおやかで余韻が長く、タンニンは柔らか。ワイナリーでは赤を試飲していなかったので、この夕食が試飲のようになったのだが、食事と一緒に飲むといいワインだなあとしみじみする。パスタだってお肉だってなんだって合うに違いない。懐深めの赤である。
帰国して、パチェントロという村についてどんな情報が出てくるのだろうと調べてみたところ、一番ヒットしたのがマドンナの祖父母の出身地という情報だった。確かにイタリア系で彼女の自伝も遠い昔に読んだことがあったはずなのに、まさかのパチェントロである。ここからは検索情報によるとだが、マドンナの祖父母は1919年までパチェントロに暮らし、当時はよくあったアメリカへの移民団として渡米した。なのでマドンナがここで生まれたわけではないのだが、このエリアが敬虔なカトリックでしかもマリア信仰(つまりマドンナ)であること、彼女の名前の実母の名Madonna Louise Veronica Ciccone Ritchie を引き継いでいるということ、Cicconeというのはこのパチェントロにしかない名前であること。図らずもマドンナの知らなかった側面を知る。もしもパチェントロを実際にみることがなければ、この情報はこんなにも自分に刺さってはこなかっただろう。彼女のカトリックに対する異常なまでの執着や憎悪は、この閉鎖的な山間で育った敬虔な祖父母や両親、土地につながっているのを、文字ではないところで感じる。
2009年にラクイラ県が大地震に見舞われたとき、パチェントロもまた被災した。その時、時の村長は祖父母がパチェントロ出身という理由でマドンナに支援を呼びかけ、彼女は多大な寄付を贈った。その後、彼女の銅像を村に建てる建てないが大論争になったとかでマドンナにしてみたらいい迷惑だ。パチェントロの今の人口は1,000人ほど。人口減少を重ねた過疎の村は、この美しさ、山に抱かれるような独特な美しい景観をこの先も保ち続けることができるのだろうかと、余計なお世話ではあるけれど不安も少しよぎる。スルモナもパチェントロも予想を上回るどころか、想像のつかない景観のダイナミックさが美しかった。まさかのマドンナというおち?もあり、久々にマドンナを聴いている。