イタリアの秘境を行く<番外編>そしてバジリカータで両足を骨折した。
イタリアの死者の日に、転んで天を仰ぐ
イタリアに死者の日という休日がある。旅の最終訪問地はバジリカータ州のワイナリー「マストロ・ドメニコ」だった。「休日だけれどもきてね」とワイナリーのエマヌエラは言った。日本のお盆のような日で、この日に死者が帰ってくる。家族で墓地に行き、皆で食事を食べるのが慣わしだそうで「一緒にランチをしましょう」と。
「マストロ・ドメニコ」に行くことになったのは、3年前に制作したイタリアワインのソムリエ内藤和雄さんの本「土着品種で辿るイタリアワインの愛し方」を届けること。そして、昨年夏に火事でブドウ畑を焼失してしまったこのワイナリーに日本からの応援メッセージを届けることだった。「マストロ・ドメニコ」のブドウ畑には、内藤さんの遺灰が撒かれていた。その畑が焼けてしまったと知ったのは、今回本を届けるために訪問しようと連絡をとった時だった。現在は畑の土壌改良、生き残ったブドウの接木など、復興に向かう取り組みが進んでいる。
エマヌエラとその家族に会うのは今回初めてで、この日はお昼頃ワイナリーに行く予定だった。前の予定が長引いてしまい、ようやくワイナリー近くの駅に到着。そこからワイナリーまでは歩いて10分程度で、徒歩でいく予定にしていた。途中、エマヌエラから何度も「ランチできるよ!」「今どこ?」などのメッセージが入り、私と旅の友、千夏さんは焦って向かおうとしていた。
小さな田舎の駅は人通りもなく、私は道を渡りながらエマヌエラのメッセージをまたチェックした。とうとうしびれを切らした模様。「あ、なんか駅に向かっているって」。
その瞬間、舗装されていないガタガタの道のちょっとした溝に左足がはまってしまったようで転びそうになった。小学校の頃、左足の靭帯を痛めて以来、私は左側に転びがちだ。この時も咄嗟に「あ、また左に転ぶ」と右に振り戻そうと思いっきり力を入れた。
「どうやったら両足折れるの?」
日本に戻ってから何度もいろんな人に聞かれたけれど、正直この時どんな転び方をしたのをよく覚えていない。左に転ぶのを避けようと右側に身体を振ったら左の足首をぐきっとやって、勢い余り右側に身体がゆっくり倒れたのだ。すごいスローモーションだった。もう一度左に身体を戻そうとしたけれど力及ばず。ゆっくりゆっくり地面に身体が近づき、ああ無理だと諦めたら、蛙みたいに両足がW字になり、天を仰いでいた。ずっと晴れていたのに、今にも雨が降り出しそうだった。
振り返った千夏さんに「ちょっとダメかも」と呟いた。
普通でない姿勢で転んでいるのは自覚できた。そして覚えていないのだが、通りがかった男性がすぐに抱き起こしてくれたらしい。
記憶にあるのは普通でない足の痛みと、エマヌエラが車から降りてきたこと。初対面の挨拶は「はじめまして。今、転んでしまって足が痛いくて」になってしまった。この時は足が折れているかもわかっていなくて、捻挫だといいなと思いながら、まずはミッションのためワイナリーに向かった。
休日診療の病院は、なんと無償だった
お父さんは正装のスーツで私たちの訪問を待っていた。エマヌエラの旦那さんがランチを準備してくれていて、まずは内藤さんに献杯。「マストロ・ドメニコ」が掲載されているページを開き、食事をしてワインを飲んだ。死者の日に献杯なんてねと話しながら。この辺りのワイナリーは岩盤を掘った小さな洞窟ワイナリーが点在している。彼女たちのワイナリーもそうで独特の雰囲気がある。本当は遺灰の撒かれたブドウ畑にも行く予定だったが、雨が降っていたのと私の足の怪我で断念。「次に来たときはもっとゆっくり来てね。畑に今日行けなかったのはまた来るようにってことなのよ。それはそうと足は大丈夫?」エマヌエラに言われて足を見る。左足はパンパンに腫れ上がっていた。でもワインを飲んでいたせいか痛みはよくわからなかった。その腫れっぷりをみて、お父さんとエマヌエラが相談して、ホームドクターに連絡をとり、休日診療している病院に連れていってくれることになった。
ありがたかった。たまたま訪れていた外国人。普通なら祝日にどこも診てはくれないだろう。しかしここはイタリア。絶対可能も絶対不可能もない。イタリア人と一緒だったことで、滞在許可証もパスポートもなく、スマホにあったパスポート画像だけで診療してくれた。医師はまず私に聞いた。
「いつまでイタリアにいるの?」
帰国は翌日の予定だった。そう言うと医師は安心したように「だったら日本でちゃんと治したほうがいい。診断書にそう書いておきます。左は軽い骨折で、右は捻挫でしょうね」。
海外の診療。海外保険は入っているもののカード払いできるのかなど不安になってくる。
「お支払いは?」
「え、イタリアはただだよ。日本はお金かかるの?」
知人の患者は外国人でも縁故扱い。助かった。転んだのがイタリア人と一緒の時で本当によかった。
結局左だけレントゲンを撮り、診断書と痛み止め薬の処方箋、あとは乾燥しているのにシャカシャカ振ると冷たくなるドライアイスのようなものが渡された。
誰に車椅子を用意してもらうのか
酔いが覚めたのか。足の痛みはどんどん増してきた。折れているのは左だけだと信じて右足に頼り、千夏さんの肩に頼、宿までなんとか戻った。頭の中は、果たして空港までどう移動しようかということだ。滞在していたのはフォッジャというプーリアの都市だった。ローマの空港までタクシー?一体何時間、いくらかかるんだろう。こんな時に限って普通のホテルでなくエレベーターのない2階のB&B。おまけに宿の前は歩行者専用道路で車が入れない。ハロウィンの日はすごい賑わいだったが祝日の夜は静まり返っていた。悶々と考えて、まずは空港までの手段を空港直行のバスに決めた。バスの発着所まではタクシーにして、宿から運転手に事情を話してもらいスーツケースを部屋から車まで運んでもらい身一つ、いやまた千夏さんの肩に助けられてタクシーまで歩いた。タクシーを降りてバスに乗れば、とりあえず一歩も歩かずに空港まで移動できる。
バスの中で、フィウミチーノ空港・車椅子で情報を調べた。空港内の案内所情報が出てくるだけで事前に迎えてくれるサービスがあるはわからない。イタリア在住の知人で今回も運転などお世話になった由紀子さんにメッセージを送り、エアラインに連絡するのがいいんじゃないかということになった。エアラインはエミレーツ。帰りはローマからドバイ経由で羽田空港の予定だった。由紀子さんはローマのエミレーツに連絡を、私は羽田のエミレーツに連絡をとった。エミレーツの対応は早かった。チェックインが始まる前に情報が入っていて、診断書とパスポートをみせると車椅子とアシストしてくれる人がセットでやってきた。ぐるぐる巻きのシーネをみて、エミレーツの職員もちょっと不安そうだったが、診断書に書かれている薬を飲んだのか聞かれた。昨日は祝日で薬局があいていなかったので、これから空港の処方箋扱いのある薬局(イタリアにもそういう薬局がある)で買って飲む予定というとなんとかわかってくれた。後で知ったことだけれどもエアラインによっては拒否される場合もあるらしいから、乗れたことが本当にラッキーだった。
おまけにどこの列に並ぶこともなく、全て優先ゾーンでスイスイ移動。トランジットも新しい車椅子とアシストの人が乗降口で待っていて、空港内は驚くほどスムーズ。1ミリも歩かずに車椅子で移動できた。快適。ドバイー羽田は長距離だったので、ひょっとしてアップグレードもあったりしてと期待したがそれはなく。しかも、骨折を予期していたわけではなかったが、帰りは足が伸ばせる席を追加料金で予約していた。なのでまあいいかと思っていたら、その席は機内の非常時にお手伝いする人の対象席だから怪我している場合は座れないと普通の席に変更されてしまった。JALとのコードシェア。この区間はJALである。対応はローマードバイまでのエミレーツの方が圧倒的に良かったと言っておこう。移された席は、3人席の真ん中で最悪。足の痛みを訴えて、ようやく足を伸ばせるシートに変えてもらった。トイレに行くのに立つのも辛いので水分も取らず、早く時間が経つことだけを祈り羽田に到着した。エコノミー症候群にならなくてよかった。
両足が折れていた
日本に帰国は金曜日深夜。翌朝、まずは近所の整形外科に行った。ここのアロハを着た先生はなかなか見立てが良い。私の足を見るなり「これ右も折れてるんじゃない?」と両足のレントゲンを撮った。案の定、両足が折れていた。痛かったはずだ。右は本当に小さな骨折とのことだったが「少なくとも左は手術しないと後遺症が残るかもしれないから手術になるかもなー」と紹介状が出され、総合病院に週明け行くことになった。
週明けて再びレントゲン。「明後日だったらちょうど空きがあるから手術できます」とあれよあれよという間に入院に。手術というのは当初考えていなかったが、すぐに手術可能と聞いて流れに乗っていた。右は小さな骨折なので自然治癒でも良いと思うと言われたのに、翌日の電話で「院内のカンファレンスで右足も一緒に手術した方が良いという判断になりました」。右側の関節脇の骨折は靭帯が引っ張って骨がくっつきにくい場所なのだそうだ。
診断は「左足関節外果骨折」と「右足関節外果骨折」。左足の方がはっきりとした骨折で、左足関節にはプレート、右足関節にはボルトが入れられた。
小さな骨折とはいえ両足は本当に厄介だった。3週間は「免荷」(荷重を一切かけてはいけないこと)と言われ、翌日からアイウォークというハンズフリーで歩ける義足のような松葉杖と普通の松葉杖を両方使って歩くリハビリがスタートした。
「素直に左に倒れとけば左足だけで済んだのにね」
とトレーナーさん。リハビリは気分転換になる。両足というのはレアケースなのでリハビリも実験的な要素が加わる。両足アイウォークに、プラス普通の松葉杖2本とか。これは座るのが困難なので即却下。早く退院したいならば早く道具を使いこなすようにと言われ、アイウォークも即買った。アイウォークは病院でもまだ予備があるほど普及はしておらず、amazonで買えば病室まで届くと言われたので早速ポチッ。フロアのナースステーションに届き、看護士さんが部屋まで届けてくれた。味をしめて色々amazonで購入する。膝下が石膏で固定されて普通のスウェットが着脱できないのでバミューダタイプのパンツ(要はステテコ)、骨強化のための鮭の中骨缶、幅広のパンツ。調子に乗って買い物していたら「使いすぎ」だと釘を刺された。でもamazonは、こういう時こそ本当に便利である。
退院後、仕事でどうしても外出が必要な場合は車椅子とアイウォークで移動。常にタクシー移動なのでタクシーアプリも頻繁に使った。平日の午前中はアプリを使っても車が来なかったりで焦った。保険的には病院の往復タクシーはカバーしてくれるが、仕事は対象外。それでも入院費用も個室代以外は保険でカバーできた。今回の怪我に伴って購入したアイウォーク、ステテコ、クロックス(靴)、ポットなども保険の対象内である。
その後はリハビリ通院になり荷重をだんだん増やしていった。1/3荷重、1/2荷重、全荷重と1週間ずつ荷重を増やして松葉杖がとれた。(1/3とか1/2とかあくまで感覚だけれども)松葉杖の期間、怖かったのが電車移動だ。事前に行く駅のエレベーターの位置、どこにタクシーつけられるかを調べる。この連携が可能な駅が意外と少なく、結局電車は諦めて全部タクシーというケースも多々あった。ユニバーサルが言われるようになっても駅で改札ごとにエレベーターがついているところは少ない。いろんな駅のエレベーターの位置が気になるようになった。車椅子の人がシャシャっと迅速にエレベーターからエレベーターに移動していると、おー使いこなしてるなーと感心して見てしまう。松葉杖や車椅子の人がやたら目にとまるようになり、勝手な同志感が芽生えている。骨折から約2ヶ月ちょっと経ち、ようやく松葉杖なしで歩けるようになったが、今も松葉杖や車椅子の人を見ると自然に目で追ってしまう。
骨折は私だけではなかった。そして一年後の抜釘へ
なんということか。入院中に旅の友、千夏さんが帰国後に圧迫骨折していたことが発覚。辿ると同じ日に骨折していて、私が骨折するより少し前、朝、スーツケースの重さを測った時にやってしまっていたらしい。
彼女の肩に寄りかかって歩いたことを考えると蒼ざめる。申し訳ないこときわまりない。二人とも骨折ということで憶測が憶測を呼び、話に尾鰭や背鰭がつき、二人で一緒に交通事故説とかがで回るようになってきたようだったので、退院後に私たちは「骨折姉妹の報告会」として旅の食事とワインを飲んでもらいながら正式?正確な骨折報告会をすることにした。
2月には骨折後初めて飛行機に乗って和歌山のVilla AiDaへ。自ら企画して予約した快気祝いの会だ。美味しさも景色も会話もことさらに沁みた。そして、この日を楽しみに過ごせたのもよかった。アブルッツォで買ったワイン、エミディオ・ペペのチェラスオーロを皆に飲んでもらい、春の芽吹きを感じる料理に自分達の回復を重ねた。
こうして足も徐々に回復に向かい、骨折から約1年後に抜釘を決めた。あまり長く入れておくと肌に馴染みすぎて抜きにくくなるそうで、暑い時期は嫌だったので、涼しくなってからにしようと決めたのだ。抜釘という言葉、自分も今回初めて知ったのだがなかなかのインパクトである。確かにレントゲンで打ち込まれた釘を見たらその通り。抜いたところは穴があいているので、しばらくはその部分の骨が弱くなるので、絶対に転ばないようにと釘を刺された(なんてね)。プレートやボルトは、足に触ると入っているのがわかる違和感はあるが、体感的には不便も違和感もない。しかし、いざ抜いてみて、想像以上のスッキリ感に驚いている。
これがざっと、イタリアで骨折して帰国して、手術して治療しての顛末である。イタリアは毎回何か起こるし、今回はコロナ後久しぶりで、本当に日々楽しく、予定外にいいこともたくさん起こったので、ずっとこんな調子のわけはないと思いながら移動していた。転んだ時「これかー、これがきたかー」とどこかで思っていた。それでも、これでバジリカータを鬼門にすることはないだろうし、むしろ早く再訪したいと思っている。
最後に入院中、一番あってよかったのは、卓上ポット、美味しいスイーツ、そして窓から見える空だった。そして手術はゼンマ(全身麻酔)に限ります。全く痛み、手術の恐怖の記憶がありません。