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朝霞と島、街の境界。【2019/03/31】
3月の後半は2週連続で2つの島に行っていた。
船の夜行便で目が覚めると、ちょうど朝霞にうずもれた島影が見えた。
島は良い。すべてのものが手の届く距離にあって、車をすこし走らせれば物理的に到達できる限界がある。よくも悪くも、制約があるから安心して暮らしていられる。
現代の街は昔に比べて境界が希薄だ。本来、町と道は点と線として機能していて、町から町へ行くにはその狭間となるべき田園地帯を通るものだった。でも、いまの東京や大都市は、街が肥大化した結果この狭間は失われ、街が延々と続き、その途中に有名無実な制度上の境界があるばかりだ。
その点島というのは、陸がなくなるところが限界であるけど、そこが真に境界というわけではない。すこし小舟を出せば目の届くくらいの海へはゆけるし、大きな船を出せばどこまでもいける。しかし人間だけならば、どこかに行ける限界もある。
そんな風に境界がありながら、境界という概念はゆるやかだ。
どうも現代に生きていると、決められた明確な境界が気になって、それを越すことを成長だと思わせられているところがある。国境があれば、越えたことのない国へ行きたくなり、仕事に限界があればその限界を越さんと求められている気がしてしまう。
島では、そのあたりが適当だ。空間も、できることも限られているから、いま自分のできることをあやふやなままさまよっていればいいのだ。
境界とか、限界とか、そんなことは僕は見たくない。ふわふわと生きていたい。
島から見えた富士山は漠然と遠くに見えていた。
もうひとつの島の話は今度。