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言葉、というものの謎|詩と雑感

それが歌ならば
声にせずにはいられないだろう

それが舞踏なら、絵なら
体を動かさずには完遂しない

でも、ことばの本性ほんせいは身体を必要としない

そのことは
書くことと公開することの深い溝を
いつも私に突きつける

そして、その迷いを越えていけ、と
そそのかす声がする



けれど、なにより
なぜ私は《身体なきことば》に
仕えよと名指しされたのか


「ことばとは何か」
その問いはいつも
あなたことばは誰?」に変容する



 まだきちんと考えを詰めていないから明快に説明できないけれど、試みてみます。わかりにくかったらごめんなさい。もしかしたら、考える道筋をそもそも間違えているかも、とも思いつつ…。脇が甘くて、しかもやや強引という自覚もありますが、本人は真剣です(^^ゞ
 いつか、このことについて簡潔に、直観的に言い当てられるようになりたいです。

🌼


 ことばは身体という器の内側、いわゆる心や精神に在って、そこから身体を介さずにダイレクトに取り出せる。
 つまり、私が詩を口述し、Aさんがタイプしても、BさんやCさんがタイプしても、まったく同じものができる。言葉は、最終的には《記号》になるから。

 けれど、楽器や歌、絵や舞踏は、《そのひと固有の身体》を使わずには表出し得ない。誰かが代わりに絵を描くことはできないように。


 もちろん、ことばも私の《生》を介して生まれる。その《生》は、私固有の身体を世界と通わせ合うことによって養われるから、ことばに《そのひと固有の身体》は必要。そこまでは絵や舞踏など他の媒体メディウムでも同じ。


 アウトプットに際して、ことばだけが記号として取り出されるということに、なにか本質的な特異性があるのではないかと思う。きっと、長所と弱点がある。

(卑近な例で言うと、絵を売るように詩そのものを売ることはできない、ということ。美しい紙に流麗にデザインした詩篇を売ることはできても、それはデザインを売っているに過ぎません。朗読劇というものは換金できても、それは朗読のなかのパフォーマンス性・同時性に対価を払っているのでしょう。詩や小説は、記号であるがゆえに《一点もの》にはなりえず、言い方が悪いけれど"大量に安く"流通することが目指される。考えてみれば不思議。
 この例を思いついたのは、以前ネットで見かけたボードレールについての論文に、彼の年収に関する詳察が書かれていたため(なんだか気の毒でした💦)。小説ならまだ、特にアレクサンドル・デュマ・ペールみたいに新聞に連載を持ったりすると結構な安定収入が得られたそうですが、詩は顧みられることが少なく、対価を得るのが本当に大変だったそうです。世界を語る新しい枠組みを見つけたすごい人なのに。クールベが1枚絵を売っておいくらになったのかわかりませんが、「絵はいいよなあ」なんて思ってそう。絵の具代が高そうですが💦 ──これは、ことばの本質というより市場経済の話なので、脱線でしたm(._.)m)

 たとえば歌ならば、歌うということに身体が関わっているから、歌うこと自体が、外に向かって開かれていく行為だと言えそうに思う。だからコミュニケーションとの親和性が比較的高い。舞踏もそう。
 絵には、制作と鑑賞に同時性が要求されないから、親和性は低くはなるけれど、身体を使って生み出すから、ボディランゲージ(の痕跡)に幾分かは似ていて、描く行為自体にコミュニケーションへの萌芽がある気がする。

 でも、ことばだけは《私固有の身体》を介さず、精神から生まれ記号へと落とし込まれるゆえに、生み出すことには「身体性=コミュニケーションの萌芽」があまりないように感じる。《私》と《世界》をつなぐ、《小さな世界》としての《身体》を介さないからだ。言ってみればワープにも似た不可解さ。常に身体は置き去りにされていく。

 そのためか、ことばにはある種の内向性──というより、外向性を持たせるかどうかの選択という一段階──があり、だれにも見せ/聞かせない「孤独な舞踏/絵/音楽」以上に隔絶した、「孤独なことば」が存在しうるように思う。

 それが私を、本質的に公開する必要があるのかとの逡巡しゅんじゅんへ、自問へといざなう。



 このテーマはまた考えていくことにして、一旦お開きにします。「アモールとプシュケー」に戻らないと...

写真はブルーデイジーです。少しくたびれているのかもしれないけれど、不揃いでも綺麗だなと思って(^^)

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星の汀 / ほしのみぎわ
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