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小礼拝堂にて 2/2


 1/2では、「自分らしさ」について、讃美歌を引いて、ご紹介しました。
 ここからは、私の目に映るキリスト教について、お話をしたいと思います。
(でもこの記事を読む方って、キリスト教についてなんらかの想いがある方が多そうなので、"なんと不敬な"とお叱りを受けるかもしれません🙇)


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 小礼拝堂という静かな場で、聖書をもとに、生き方について考える時間。
 それは、私がふだん生活している中で、見つめたり感じたりしている深度に近しく、ゆえにとても居心地が良いのです。
 私が通っていた中高一貫校はミッションスクールだったので、当時のこともなつかしく思い出されます。


 中学・高校で学んだキリスト教は、"すでに出来上がった教え"を拝受していた感覚。

 毎朝の礼拝。帰りの会では、日直さんが選んだ讃美歌を歌って帰路につく。そんな毎日を、6年間。
 学年によっては「聖書」という授業科目もありました。時代背景などの全般的解説、資料集の読み込み、《主の祈り》や『詩篇』のいくつかを暗誦、など。期末テストもありました。幸い私はその科目が好きで、文語で書かれた詩を憶え込んだのは、よい財産となりました。


 そしていま牧師さまが教えてくださるのは、当時の社会の中で生きていた女性たち、一般の人々、そして使徒たちが、一次資料(?)のように目撃したイエス様の姿です。

 奇蹟などはあまり取り扱わず、新たな価値観に触れた人々の驚きを、追体験するように語って下さるので、とてもなじみやすいのです。

 紀元零年前後を生きていた人々が、階級・性別・地域の対立や齟齬によって抱えていた様々な困難。そこにナザレ村からイエスという青年がやってきて、まるで哲学者のように、新たな価値観を示したのです。
 イエス様は、個人と神の関係を主軸にしているため、人間同士の区別や差別はありません。当然のように、上下関係フリー、ジェンダーフリーetc.です。これだけでも革新的ですが、さらに、当時の強固な因習を打ち破るため、(詳細は省きますが)時に苛烈なまでの価値転換を迫ることも。それは、思想家であり行動する哲学者。
 それが最初期キリスト教のシンプルな出発点。祭祀でもコミュニティづくりでもなく、自由リベラルに何かを問い、考え、生き方を選択する行為です。(イエス様もお釈迦様も、"宗教"を作ろうと思ったわけではないように思うのです。)

 信仰というものが問われねばならなくなるのは、イエス様がこの世を去り、親しく接した"第一世代"が世を去った後のこと。つまり、《継承》という課題に突き当たったときに持ち込まれた概念だろうと思います。

 それは、私たち広島に住む者が、原爆の記憶を継承するときに出会う困惑「どうすれぱ風化させずに伝えられるか」と、似ているのかもしれません。
(↑ちなみにこれは私ではなく、別の参加者の気づきです。)
 そして、この場を借りて、坪井直さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。


 残された福音書や、使徒たちの書簡を目の前にした人々は、そこに書かれた思想を受け入れるかどうかを選択し、さらに、奇蹟や復活という超自然的な事柄を信じるかどうか、決断することを迫られるに至ったわけです。それが"信仰"の始まり――なのではないでしょうか。

なお、広島の平和教育について、他県の方が(揶揄の意味ではなく)ちょっと宗教みたいだね、と所感を述べる場合があるそう。やはり、《継承》にまつわる出来事ですので、どこかしら共通点もあるのかもしれません。もちろん、表面的な響きとして"宗教"と言われてしまうと違和感がありますが...

 "信じる"というのは、時に、"思考停止"の裏返しです。信仰するかどうかを問われ始めた後の世代の人々が、規模の拡大に伴う組織化も手伝って、次第に教条的になってしまったのは、イエス様としては残念なことなのではないでしょうか。元来、自由にのびのびと生きるために、革新的な思想を述べられたわけですから。


 上記のように、個人的には、福音書は神話&物語/哲学書であって、イエス様があのとおり奇蹟を行ったのかどうか、神の子なのかを問うのは、本質的に意味がないと感じています。(人類が、そういう時代を通り過ぎたというか...)

 ですが、福音書で語られるイエス様像、個人的にはとても好きなのです。(そして、ルカ伝が一番物語っぽくて好き。)

 なので、イエス様とエモーショナルにつながっていたとして繰り返し描かれている、マグダラのマリアさまがちょっと気になる🤔💕

 高い精神性と聖性、情熱的な博愛と自己犠牲のひと――。つまるところ、私にとってのイエス様は、"推し"であり、教会に行くのもこの記事も"推し活"。ですが、ソクラテスやハムレットを信仰しないのと同様に、イエス様も信仰の対象ではないのだと思います。
(もっとも、"推し"への愛はもはや"信仰"だとも言われるそうなので、一歩手前なのかも...🤔❓️)


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 それにしても、私はなぜだか、(これでも遠慮しているのに)鋭い切り込みをする人間のようで、毎回何度か「鋭い質問ですね」「厳しい質問ですね」と牧師さまに言われてしまうのですが... プロフェッショナルと見込んだ方には手加減しないのが礼儀というものですから...。

 でも、そう仰りつつ、愉しそうな牧師さまを見ているのがたのしかったり(^^ゞ


 さて、予想外に長くなったこの記事も、そろそろ締めくくりです。最後に、このことを記して、おしまいにしようと思います。

 半年ほど前のイースターの時期に、牧師さまはこんなお話をしてくださいました。
 十字架にかけられることになったイエス様を、「私はあの人を知りません」と3度も否認したり、十字架を目撃するのが怖くて逃げ去った使徒たち――一方、女性たちは、十字架も復活も、最後まで見届けたらしい――が、後になって、如何なる迫害にも立ち向かう強さを手に入れたこと。それを考えるとき、それが何かはわからないけれど、あの時確かに何かがあったはず。私が言えるのは、ここまでです、と。

 もしかすると、牧師さまというのは、固く信仰し続けているというよりは、ゆらぎながらも、イエス様に出会い直し続ける生き方を選択した人々なのかな...と、いささか不謹慎な捉え方をしてしまう"第三者"なのでした。
 こんなことだから、「厳しい質問です」なんて言われるんだろうなあ...。

 でも、狂信的に信じ続けるよりも、常に自分を試し続ける生き方の方が、時に失敗することがあっても、強くしなやかで、人間らしく、自由だと思うのです。

 そんなわけで、心の中でMY牧師さま、MY牧師夫妻、と呼んでいるお二方ゆえに、教会に足を踏み入れる私でもあるのでした。


※写真はFree-photosさん@pixabay



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