広島・長崎 平和のバラ〜平和大橋〜ヒロシマの碑|散策🐾
花写真を撮るのが趣味なのに、薔薇のストックが1枚もないのはいかがなものか。
せっかくの5月に、ぜひ写しておきたくて、ネット検索したのが《広島・長崎平和のバラ》。
広島らしい薔薇を写真におさめるべく、出かけてきました。
あいにくの?快晴。これだけ晴れていると、PLフィルターをつけても光を調整しきれないのですが...。
🌱 広島・長崎 平和のバラ
平和大橋から東、平和大通りを歩くと、ほどなく見えてきます。
長崎で被爆され、重症を負いながらも救護に尽くした、永井隆博士。お庭に咲いていた薔薇を贈っていただいたものだとか。
🌱 平和大橋
平和公園エリアの東端に位置するこの平和大橋については、対となる西平和大橋《沈む太陽》【ゆく】と併せて、いつか別記事にしようと思います。(今はなんといっても知識不足がひどいので。)
🌱 ヒロシマの碑
平和大橋を離れ、元安川左岸を北上していたら、中学生の小グループに出会いました。
「はーい、では、平和を願って」...教師らしき人が、集合写真を撮っています。
三々五々、歩き始めた先には、慰霊碑がありました。
中でも一人、いつまでも座り込んで、説明をノートに書き写している男子学生がいました。
私などはシャッターを切って終わりですが、急ぎながらもじっくりと書き写す様子を見ていると、記録ってなんだろう、伝え(わ)るってなんだろう、と考えさせられます。
その見知らぬ学生さんが、何かに出会った瞬間に立ち会えたようで、少し厳かな気持ちになりました。
その場を早めに切り上げて川沿いでおしゃべりしていた数人の男女学生も、すでに邂逅を果たしたのか、これからなのかは知る術もありませんが、何か心に残る体験だったのではないかと思います。
🌱 継承について、二千年前のお手本
このnoteでも何度か触れましたが、被爆者の方々がお亡くなりになる中、どのように被爆体験を継承していくかは難しい課題です。
今月の教会での勉強会で、キリストの教えを伝えていく立場に立った人々が、キリストの言行録とも言うべき福音書を書き、草の根で広めたこと、中には伝道旅行に辛苦した人もいた、というお話を聞きました。
それは、キリストに直接出会った第1世代が世を去り始めた頃、継承という問題に突き当たった人々の軌跡ですから、現在私たちが置かれているステージと、それほど違いはありません。
パウロのように伝道大旅行をした偉人的な働きももちろんあったにせよ、キリスト教が普遍的に受け入れられたのは、ひとりひとりの名もなき人々の、小さな積み重ねの集合だったようです。
牧師さま風に言うと、「キリストの教えを信じた」人々であり、私風に言うと「イエス様をめぐる物語と社会的枠組みをよしとした」人々の、日々の意識的積み重ね。
永井隆博士のような名のある死者と、名もなき死者と、どちらもが総体を為しているように、ヒロシマで起きたことを伝えていくのも、名のある人と名もなき人々の総体であるはずです。
名もなきひとの一人として私が思うのは、そんなに気負わなくていいから、一人一人が口の端に上らせるだけでいいのだろうということ。それこそが、一過性ではなく、伝え続ける、という長いスパンで考えたときに可能な、現実的な方法だと思うからです。
キリスト教はその後2,000年ほど伝えられ続けていますが、広島や長崎のことも、2,000年伝え続けるのかなと思うと、ずいぶん長い道のりですね。
恒久平和が実現されたら、語る必要がなくなる性質のものかもしれませんが、恒久平和だと言えるのは結果的にであって、未来のことはわかりませんから、いつまでも伝え続けることになるのでしょう...。
過去とは違い、文明の発達により、伝えるべき歴史も資料も増え、デジタルデータとして永久に保存可能となった時代です。
過去の教訓だけでなく、良い出来事も保存し継承していくことができます。知の総体って、どうなっていくのだろう...などと考え始めると、頭がクラクラしてきますが...。
🌱 終わりに
そして最後に、原爆ドームと原民喜さん詩碑をフレームにおさめて、プチ取材も完結です。