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小礼拝堂にて|ヴィア・ドロローサ、そしてキルケゴール、《ゲッセマネ》|つぶやき


🧸 小礼拝堂にて


ヴィア・ドロローサ、「苦難の道」──。

「これが、イエスが十字架を背負ってゴルゴダの丘まで歩いて行かれた道とされている場所です。弟子に声をかけられた地点、十字架の重荷に耐えかねてくずおれた地点、など、福音書の記述に基づいた場所を示すプレートが街路に貼られています」


毎月の、教会での学びの会。
今回はパレスチナ問題でした。
ですが、この日記では、国際情勢ではなく、キリスト教に対する私の個人的なつぶやきを書きとめておきます。誰にともなく...。


超教派で取り組んでいるというチャリティー活動のためのスライドを見せていただいて。
大写しになったヴィア・ドロローサは、まるで自分がそこに立って追体験しているよう。胸を衝かれました。


イエスさまが結局は、生涯の推しだろうと、ちょっと甘やかでもある諦めのうちに過ごしている私。

でもね。
神様はずるいとおもうの。
世界中のたくさんのひとがすでにあなたを信じているのに、どうして私まで手に入れようとなさるのですか。
一夫多妻制みたいで納得がいかないのです。(そういうことじゃないのはわかっているけれど)

私がいずれ死ななければならない我が身の不幸を嘆いているときに、どうして永遠に果てることのないあなたが、私の気持ちをわかるふりをするのですか。

全知全能だという設定になっていて、そういう存在を仮定してみんなで信じているけれど、本当に、そんなひと、いるの?

私が〈いま、ここ〉を見られず、遠く遥かにいつも視線をさまよわせているのは、神様が私からあまりにも遠くにいるからじゃないのかしら。

私が愛しているとすれば、それは神さまではなく、神という概念上の存在を作り上げ、摂理と希望と慈愛を仮託した人間そのものなのだと思う。 


でも、ヴィア・ドロローサの写真を見たときに涙が出そうになるのは、イエスさまを2000年間ずっと信じて来た人たちへの共感からではない、というのもまた本当のところ。

ストーリーを愛しているだけなのかもしれない。人間は、出来事そのものではなく、ストーリーを好むものだから。


ああ、だれか、こんなしようのない貧しい心の私を説得してくれる哲学者や文人、詩人でもいないものかしら。喜んで軍門に降りたいのに。

ああ、腐れ縁。
クリスチャンの方、本当にすみません。
でも、信じることもできず、かといって離れることもできない私の、正直な気持ちです。


🧸 キルケゴール『愛について』


そんなことを思いながら、キルケゴール『愛について』を読むと、刺さるのですよ。
" 愛の宗教 "とも呼ばれるキリスト教の、隣人愛について、マニアックなまでにストイックに、重箱の隅めがけて鍼を打ってくるキルケゴールに、蜂の巣にされながら。

(たとえば、要約するとこんな感じ)
友人や恋人を愛するのは限りなく利己愛に近いです。隣人愛とは「その他大勢」の一人を「私とあなた」として、向き合うことから始まります。時に、あなたにとって憎らしく許しがたい人を愛することでもあります。
ある人を思い浮かべ、自分の隣人かどうか自問するのではなく、あなたがその人の所に行って、隣人であることを行いによって自ら証ししなさい。
そして、その隣人を大切にしたように、あなた自身をもまた大切にしなさい。自分を正しく愛さないことは、自分自身に対する最も深い裏切りです。

第一章より


自明の命題のように「あなたは愛さねばなりませぬ」と通達されると、一言の反論もできずに、「仰るとおりです・・・」と唸りつつ、彼の清明さに憧れ、静かなる熱血に引き込まれるところもあって。(訳が古風なところも好き。)

きっと、キルケゴール先生なら、迷える仔羊の私に向かって、こんなふうに仰ることでしょう・・・。
「恋というのは、あの"無限"が呼び醒ます美しい陶酔にすぎません。汀さん、信仰っていうのはね、そんな恋愛じみた事柄じゃあないんですよ・・・。信仰をなにか別のものに作り替えるために理屈を並べてはいけません。ただ素直に信じればよろしいのです。鳩のごとく素直に…と、聖書に書いてあるでしょう。深い印象というものは、いつも胸に神秘を湛えていますね。恋愛などというものは、人を沈黙させるには足らない愛なのです」




🧸 《ゲッセマネ》


そんなこんなで、ヴィア・ドロローサ繋がりで、この動画を置いておきます。
ミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』。キリストの最後の七日間を描いたロックミュージカルです。

なかでも、《ゲッセマネ》。イエスさまの苦しみはこんなに深く鋭かったのかとふるえずにはいられない(でも何度も聞いてしまう)圧倒的な名曲です。こういうのをカタルシスというのでしょうか。

二年前に劇団四季の公演を見に行ったときは、鞭打ちと磔刑を見ていられず、客席で貧血を起こしかけた私です。
生の舞台は二度と無理な気がしますが、映像なら、もう一度観劇したいです。

ミュージカルとしては、キリスト教圏の人々が涙し、イエスとは何者なのか、そしてユダとは、を自問せずにはいられない不朽の名作です。
でも、一曲だけ取りだすと、キリスト教に関心のない方は引いちゃうかもしれないディープな世界だということを申し添えておきますm(_ _)m
神とイエス、ではなく、運命と人間、に置き換えて聞くと、わかりやすいかもしれません。

ふだん聞いているパフォーマーとは違いますが、違法でないと思われる動画の中から選びました。
動画はいくつもあって、野性味のあるキリストから、ちょっと甘えん坊系まで、聞き比べも興味深いです。


歌詞はこちら。日本語訳がおかしいところもありますが...。
歌詞がすごいので、英語がお好きな方は是非。



タイトル画像は、用事先の近くで見かけた教会の前庭に咲いていた《アンネの薔薇》。古いスマホしか持ってなくて残念。

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星の汀 / ほしのみぎわ
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