人生論ノートより「創造的な生活」のすすめ
通販みたいなタイトルになってしまった。
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
今の世界は、自分が世界とどのように関わっているか。どのような場所にいるか。見えにくくなってきているように思えます。その結果自分自身も、どのような人間かわかりづらくなっているように思えます。
そんな世界をこれからどのように生きていくべきか。哲学者三木清のエッセイ集である人生論ノートをヒントに考えていきたいと思います。
かつては使っている道具にしても、誰が作ったか知っているし、聞いている情報も誰がしゃべったか知っている。三木清は「限定された世界のうちに生活したいた」と表現しています。道具にも情報にも作り手の顔が見えたわけです。
けれども、今日の私たちは誰が作ったかわからない道具を使い、顔の見えない相手から情報を得ている。どんな物をつかってもよく、誰から情報を得てもいい。そんな世界を、三木清は「現代人は無限定な世界に住んでいる」と言っています。
それは同時に顔の見えない人の中で生活し、顔の見えない人のために働く。そんな顔のみえない社会を生きているともいえます。そんな社会を生きる人を、三木はアノニム(無名)な人と呼びました。
無名で無限定な時代、顔の見えない社会の中で私達は自己を見失いがちになります。そういった社会から「私」を守るためにどうすべきか、三木は「孤独」であることを勧めています。
孤独であるとき、我々は物から滅ぼされることはない。我々が物において滅ぶのは孤独を知らないときである。
さらに、三木は、孤独な自分を世界に表現することで、自己と他者を救うことができると言っています。「私」の防衛するための手段として「孤独」になるのではなく、反転攻勢して、積極的に生きるために「孤独」になろうと言っているようにも思えます。
物が真に表現的なものとして我々に迫るのは孤独においてである。そして我々が孤独を超えることができるのはその呼びかけに応える自己の表現活動においてほかならない。アウグスティヌスは、植物は人間から見られることを求めており、見られることがそれにとって救済するであるといったが、表現することは物を救うことであり、物を救うことによって自己を救うことができる。かようにして、孤独は最も深い愛に根ざしている。そこに孤独の実在性がある。
既存の世界の中で無価値であったり無意味だと思われているものに価値や意味を創造すること。それは、世界でたった一人の「孤独」なあなたにしかできないことです。違う言い方をすれば、何か新しいことをしようとするときに、人は孤独であるともいえると思います。
三木は別の箇所で「創造的な生活のみが虚栄を知らない」といっています。創造的な活動により、世界と私とにオリジナルな関係が見いだされ、あなたによって表現された世界は新しい世界となるのです。
時間に追われ、余裕のない時代でもあります。何かを創造するなんて行為は、かなりストレスのかかる行為です。でも、創造的な生活ってなんか楽しそうではないですか。生活の小さな場面から、そういったことを意識して新年を送ってみてはいかがでしょうか。