『人生論ノート』 ー感傷についてー
三木は感傷についての冒頭で様々な感情と対比させて感傷をこのように論じています。
しかるに感傷の場合、私は立ち止まる、少なくとも静止とも近い状態が必要であると思われる。動き出すや否や、感傷はやむか、もしくは他のものに変わっていく。
ー人生論ノート 感傷についてー
三木は感傷にひたるということは、自分の人生という物語を停止させて、ただ立ち止まることだといっているように思えます。なので、感傷を克服する方法として、この文に続けて、三木は次のように提示します。
故に人を感傷から脱しさせようとするには、先ず彼を立たせ、彼に動くことを強要するのである。
ー人生論ノート 感傷についてー
だったら動いていれば感傷に浸ることはないだろ。動けよ!ということですね。悲しいとき苦しい時にそう言われてもと言うところではありますが、一番の処方箋かもしれません。さらに、三木はこのようにも書いています。
感傷的であることが芸術的であるかのように考えるのは、ひとつの感傷でしかない。感傷的であることが宗教的であることのように考えるものに至っては、更にそれ以上感傷的であると言わねばならぬ。宗教はもとより芸術も、感傷からの脱出である。
ー人生論ノート 感傷についてー
感傷からの脱出は別の言葉でいうならば、自我からの脱出ということができるのかもしれません。100分de名著「歎異抄」の回、解説の釈徹宗先生が「宗教はひとつの物語で、この物語、この宗教は私のために用意されたものだと思った時に自分は救われる」と言った言葉を思わされます。
あらゆる情念のうち喜びは感傷的になることが最も少ない情念である。そこに喜びの特殊な積極性がある。
ー人生論ノート 感傷についてー
三木は喜びの中に生きることによって、感傷に陥ることが少なくなるといっています。つらいことや悲しいことがあっても、たった一つ自分の人生を喜びをもって生きていくことが感傷から脱出する方法であると言えるのだと思います。
さて、三木は感傷がわれわれの生活、社会に深く結びついていることについては注意を向けています。
日本人は特別に感傷的であるということが正しいとするれば、それは我々の久しい間の生活様式に関係があると考えられないだろうか。
ー人生論ノート 感傷についてー
三木も言うように感傷は私たち日本人の生活に深く根付いていているように思えます。私たちの社会の中で、人生を積極的にあるいは能動的に生きるとことは難しいのではないかと思います。私たちの社会はそのような人間像を前提とした社会を作ってきていないからです。すなわち、そのような積極的な生き方をどのように認めていくことできるかが今後の日本社会の課題になるのではないでしょうか。
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