『人生論ノート』 阿(おもね)ることについて
三木清は人生論ノートの偽善についての中で阿(おもね)ることについて述べています。阿る、阿諛的とは『きげんをとってその人の気に入るようにする。へつらう。』ことを意味します。
絶えず他の人を相手に意識している偽善者が阿諛的でないことは稀である。偽善が他の人を破壊させるのは、偽善そのものによってよりも、そのうちに含まれる阿諛によってである。偽善者とそうでないものとの区別は、阿諛的であるかどうかにあるということができるであろう。
人生論ノート ー偽善についてー
完成された人格を持つ人間はいないため、多かれ少なかれわれわれは偽善的な部分を持っていると三木は言います。しかし三木は全ての人を偽善者として定義しようとというわけではなく、偽善者の定義として、意識の先が意識的に、他の人間、あるいは社会に向かうことにあると言っています。
ひとに阿ることは間違ったことを阿ることは間違ったことをいうよりも遥かに悪い。後者は他人を腐敗させはしないが、前者は他人を腐敗させ、その心をかどわかして心理の認識に対して無能力にするのである。嘘吐くことでさえもが阿ることよりも道徳的にまさっている。虚言の害でさえもが主としてそのうちに混入する阿諛によるのである。
人生論ノート ー偽善についてー
阿った発言は人を愚かにするため、嘘をつくよりも悪いということです。『巧言令色鮮し仁』という言葉にいいかえられることかと思います。
真理は単純で率直である。しかるにその裏は千の相貌を具えている。偽善が阿るためにとる姿もまた無限である。
人生論ノート ー偽善についてー
阿る人というのは自己ではなく他者に合わせるので、その姿も他者によって変わってきます。この後リーダーの持つ資質について次のように述べられています。
多少とも権力を有する地位にある者に最も必要な徳は、阿る者と純真な人間とをひと目で識別する能力である。これは小さいことではない。もし彼がこの徳をもっているなら、彼はあらゆる他の徳をもっていると認めても宣いであろう。
人生論ノート ー偽善についてー
諫言をしてくれる臣下というのは、非常に大事です。三国志で言うところの曹操での荀彧、孫権での張昭、劉備での諸葛亮といったところでしょうか。黄皓や岑昏の類が幅を利かせるようになってしまうとあまりいい傾向にないということだと思います。(三国志ネタに変わってしまった。)