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ニセの着物があわない人へ『続堕落論』から

『続堕落論』は無頼の作家坂口安吾のエッセイです。戦後間もない1946年、に『文学季刊』で発表されたものです。読んでみた印象に残ったところを抜き出してみました。


人間の、又人性の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度ごはっとだの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることが先ず人間の復活の第一の条件だ。そこから自分と、そして人性の、真実の誕生と、その発足が始められる。
先ず裸となり、とらわれたるタブーをすて、己れの真実の声をもとめよ。未亡人は恋愛し地獄へ堕おちよ。復員軍人は闇屋となれ。堕落自体は悪いことにきまっているが、モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。表面の綺麗きれいごとで真実の代償を求めることは無理であり、血を賭け、肉を賭け、真実の悲鳴を賭けねばならぬ。
生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。無限又永遠の時間に対して、その人間の進化に対して、恐るべき冒涜ではないか。我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしか有り得ない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。

坂口安吾は文体からちょっと私のようなルーズ人たちに受けそうですが、読んでみて、安吾はだらしない生活をしている人やしたい人、あるいはアナーキな人に対してこの続堕落論を書いているのではなく、世間に合わせすぎて自分の理想が見えなくなったり、自分自身が掲げる生きる理想でかえって人生を窮屈にしてしまっている真面目な人にこのメッセージを届けたかったのではないかと思いました。

大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をまとうことでかえって生きることがつらいなと思っている人は是非坂口安吾の『堕落論』を一読したのち、欲するところを素直に欲し、厭な物を厭、好きなものを好きだ、と言ってみてはいかがでしょうか。

※坂口安吾の『堕落論』および『続堕落論』は100分de名著、『堕落論』の第1回、および第2回で取り上げられています。(ちなみに、第三回は日本文化私観、第4回は白痴です。)みなさんご興味あれば。


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