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私が迷ったら「地味」な方を選ぶ理由
自分で勝手に作った「仮説」ワーク。やっていく中で、ちょっと自分の意図とは違うことになるのだけれども、私には人生で二つの方向で迷った時には、どちらかというと地味な方向を選ぶとうまくいくという「仮説」があります。というよりも、派手な方向をチョイスするとなぜだかうまくいかない後悔することが多いのです。世界観とはちょっと違う処世術?のようなもの。
高校選びはそれで失敗し、大学選びはそれを考えてまあまあうまくいき、就職活動もそんな感じできめました。就職活動のなかで履歴書の中で自分の自覚している性格として「朴訥」としていると書いたところ、採用がかないうまくいった思い出があります。自分に素直に書いたことがよかったのかもしれません。
この「仮説」について今まで余りそれ以上考えたことはなかったのですが、人生論ノートのこんな言葉が
「善く隠れるものは善く生きる」という言葉には、生活における深い智慧が含まれている。隠れるというのは偽善でも偽悪でもない、却って自然のままに生きることである。自然のままに生きるということが隠れて生きるということであるほど、世の中は虚栄的であるということをしっかりと見抜いて生きることである。
三木清 「人生論ノート」ー偽善についてー
地味なものを選択するということは虚栄的なものから離れて生活するということになるのかなと。つまり、私は知らず知らずのうちに虚栄的な生き方をさけていたんではないかと考えました。(むしろ、無意識の中で虚栄的なものにあまり価値を認めていないのかも)
もちろん、虚栄的であることイコールダメというわけではないです。社会というのはフィクショナルであり虚栄的な部分を持っており、その中で生きる我々もまた大なれ小なれ虚栄的にならざるを負えないのです。われわれが虚栄的であるというのは社会的な存在であるとも言えると思います。
ただし、虚栄的なものが自分の中で大きくなりすぎると身を滅ぼすことがあります。贅沢とか社会的地位とか。そのため、私自身としては、これからも、直感的に地味なほうを選んで行きたいと思います。それは、自分自身が虚栄に滅ぼされないようにするために一番に自分にとって一番いい方法だと思うからです。