父のゲイ生活は、私から愛する父を奪った
どんなに裏切られ傷つけられても、お父さんのことを理解してあげたい、愛したい――このような感情を抱く、家庭不和で育った子どもたちは多いようです。
子ども時代に家庭内不和を経験した人々の声に耳を傾け、家庭の大切さを啓発するNPO 、「Them Before Us(="大人の私たちよりも子どもたちを優先に")」 のサイトに掲載された、マリーの手記をご紹介します。マリーの小さい頃に両親は離婚し、その後マリーは、ゲイ生活を送るようになった父に寄り添いました(関連資料として紹介。以下、和訳。リンクは文末)。
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大学生だった頃の私は父がゲイであることを自慢していた
2017年8月30日
私は大学生の頃、自分にはゲイの父親がいて、私が幼児の頃に父が「カミングアウト」したことを、周りに誇らしげに話していました(両親は私が2歳の時に離婚)。周りにはこう説明していました――私は普通の人間で、異性愛者で、教育を受けた若い女性だし、人生において父とは時々一緒に暮らしたけれども、父のライフスタイルが私に影響を与えることは全くなかった、と。
父と一緒にゲイ・バーを巡って、私の成長過程で知り合った父の友人たちに会いに行ったりもしました。ゲイ・バーに行ったことのない友人を連れて行ったこともあります。私が連れて行かなければ彼らはきっと行くことはなかったでしょう。同性愛が以前より社会的に受け入れられるようになってきたと感じるようになって、私は自分自身に新たな価値を見出すことができました。私がこれまで耳にしてきた同性愛者に対する世間の非難の声――父との関係があったからこそ、私はいつもそれらに対して憤慨してきましたが――、それが一掃された気がしました。でも今振り返って分かることは、私は、受けてきた多くの心の傷を「自分は達観視できているのだ」という偽りの自己像の下に隠していたということです。
子どもの頃に受けた数々のカウンセリングのことは誰にも話したことはありません。両親の離婚や父の決断によって私が受けた心の痛みや混乱についても、誰にも打ち明けたことはありません。私のこの気持ちは「誰かが」”父について”話していたことから来るものではありません。私が子どもの頃、母が父の悪口を言っているのを聞いたことはありますが、それは父がゲイであることについてだけではありませんでした。 父が休日や家族の集まりにボーイフレンドを連れてきても、カトリックの祖父母は(少なくとも私の前では)決して否定的なことを言いませんでした。父の兄弟もそうでした。私が通ったカトリック系の小学校では「結婚は男女が子どもを育てるためのもの」だと教えていました。先生方は私の父親のことを知っていましたが、それを口にすることもなく、私を特別扱いすることもありませんでした。 他人による、父のライフスタイルに対する批判は非常に少ないものでした。
私は主に母と暮らしていましたが、父とはより近い関係にありました。 父は素晴らしい性格の持ち主で、一緒にいるときは、いつも私に気を配ってくれました(私が子どもの頃は隔週で週末を過ごし、6ヶ月以上フルタイムで一緒に暮らしたことも3回あります)。 私が子どもの頃、父には何人かのボーイフレンドがいましたが、私は彼らをとても高く評価していました。 彼らは立派な男性たちで、いつも小さい私に敬意を払ってくれました。私は8歳くらいになるまで、父の人間関係をよく理解していませんでした。それまでは、一緒にベッドで寝るような仲の良い友人のように見ていましたが、父たちが抱き合ったりキスをしたりするのを目撃すると(実際にはそこまで頻繁ではありませんでしたが)戸惑いを感じました。 男性と女性もそういうことをするものだと知っていましたが、それは子孫を残そうとする自然な欲求からくるものだと思っていました。
私は幼い頃から、母が答えられないような質問をするようになりました。例えば「どうしてパパには、ママのように、ボーイフレンドがいるの?」 また「パパの“新しいお友達”のことを何と呼べばいいの?」とも。 私が少し大きくなってから母に聞いたところ、母はそのような質問にはどう答えたらいいのか分からないということだったので、私はカウンセラーに相談することにしました。 幼い頃の私は、私たちを捨てた父に腹を立て、いつも母に八つ当たりしていました。 両親の離婚は、私にとって「慣れる」ことができるようなものではありませんでした。離婚は私がまだ幼稚園児だった頃に起きたことですが、生きていく中で私に非常に大きなダメージをもたらし、私は深く傷つきました。 両親が互いを嫌っていることは知っていましたが、子ども心にも「そんなことは結婚する前に考えればよかったのに」と思っていました。 互いから離れて暮らす両親がいることは容易ではありませんでしたが、それと同じくらい大変だったのは、私が成長する過程で、父のライフスタイルを理解していかなければならないことでした。
私の人生には、父が”独身”だった時期が何度かありました。 私は父が”独身”だった頃、半年ほど一緒に暮らしたことがありますが、父の人生の中で、それは最も幸せな時期のひとつだったと言えるでしょう。その間、私たちは一緒に旅行をし、父は外出を控え、ジムでトレーニングをし、健康的な食事をして、平穏に過ごしているように見えました。 後になってから知ったのですが(20代になって)、この時、父は自分がHIV陽性であることを知ったようです。 ”独身時代”の父は確かに元気でしたが、まるで中毒のように、ゲイのライフスタイルに引き戻されていっているように見えました。
私が10代に入った頃から、父は自分の生き方についてオープンにするようになりました。 まだ子どもだった頃、私は父の人間関係の表面的な部分をよく見ていました。すべてのゲイを一般化するわけではありませんが、私の父や父の友人の多くは、自分たちのライフスタイルを非常に“控えめに”表現する方法を知っていたと思います。 表向きには、お互いに「愛し合っている」2人の男性のように見えました。 彼らは家族のイベントに一緒に参加し、一緒に暮らし、まるで「カップル」のように振る舞っていました(まさに異性愛者のカップルを真似て、男性役と女性役を演じていたのです。父はすべての関係において女性役でした)。
父は私に、彼らがいかに寛容で愛情深いかを説明し始めました――彼らの「ボーイフレンド」が他の「ボーイフレンド」を持つことさえ許しているのだと。 また”入手先さえ分かっていれば”、ドラッグ含め、”どんな新しいことを試す”ことも問題ない、と話しました。 私が抱いていた父のイメージはどんどん崩れていきましたが、それでも私は父のことが大好きだったので、すべてを理解してあげたいと思いました。私は自分の周りの大人たちに目を向けるようになりました。私の母は何人ものボーイフレンドを持ちながらも再婚はしませんでしたし、私の家族には他にも離婚した人がいました。でも、なぜか父がしていることほど気にはなりませんでした。直感では、私は父と距離を置きたいと感じていましたが、結局、私は父を受け入れることにしました。
私が10代後半になると、父は自身のライフスタイルの隠された部分を私に見せるようになりました。高校3年生のとき、私は父と再び一緒に暮らすようになったのですが、私が学校に行くために朝起きると、父とボーイフレンドが夜通しパーティーをした後に朝帰りをしてくる、ということは日常茶飯事でした。 父は家事もしていたので、仕事から帰ってくるとしばらく寝ていました。 なぜ父がこのようなことをするのか理解できませんでした。 父には素晴らしい仕事、ボーイフレンド、素敵な家、そして父を本当に愛する娘がいました。 そんな父が、なぜドラッグをやらなければならなかったのでしょうか? なぜ、一晩中飲み歩く必要があったのでしょうか? なぜ、他の男性をナンパしに行く必要があったのでしょうか? ある朝、私と同年代の10代の少年が、家のソファでタバコを吸っているのを見て、私はショックを受けました。少年は「私の父と父のボーイフレンドに拾われた」と冗談を言っていました。 彼は、前夜のバーでの支払いをカバーするために、家の掃除をするつもりだったそうです。この時点で、私はこういうくだらないことに呆れ果て、その後、結婚することになった男性と同棲することにしました。それは誤った決断でしたが、当時の私は必死でした。
私が大学に通っている間、父は肉体的にも精神的にも下り坂を転がり落ちていくように見えました。私が父を訪ねるたびに、誰かが「何か(ドラッグ)」を受け取りに来ていたのです。父は病的にやせ細り、顔もやせ衰えていきました。父はあまり私に電話をしてきませんでしたが、記憶に強烈に残っているのは、車で1時間ほど離れた湖畔のパーティー会場に、父を迎えに来るよう頼まれたときのことです。そこに着いてみると、そこは周りに何もない、巨大なリゾート地でした。父が見せてくれたチラシには、ゲイのための大規模なパーティーの案内が書かれていました。このようなパーティーを見聞きしたのも初めてでしたが、一言で言えば「とてつもなく悲惨なセックス・パーティー」でした。父が荷物をまとめるのを待っている間、プールサイドで話してくれた父の友人が、さりげなくその一部を説明してくれました。この時、私は父がHIVに感染していることを知っていましたが、それでも父は承知の上でこれらのことに参加していました。確かに彼らは「自己判断できる成年たち」ではありますが、参加者の多くは、HIVやその他の性感染症に罹っていることを知りながらも、他人を危険にさらしているのです。また、結婚している異性愛者の男性もパーティーに参加していると聞きました。こうしたパーティーは、ゲイ・コミュニティだけでなく、社会全体にも影響を与えているのです。
私が20代前半の頃、父は重い病気になり、入院しました。 その頃私は、父の家には(5年間付き合っていた彼氏とは別に)、別の男性が同居していることに気づきました。父のボーイフレンドがこの男性と一緒にいたことは明らかで、父が病気になったことで、彼らの関係は進んでいったようです。私は頻繁に父の見舞いに行きましたが、数週間後、父は家に帰れるほどまで回復しました。父は新しいHIV治療薬を手に入れるためにシカゴに行くようになりましたが、病状はさらに悪化してしまいました。父は薬の影響で疲れて仕事ができなくなり、退職することになりました。まだ50代前半だったのに、90歳の老人のような体をしていました。私は自分の無力さを痛感しましたが、何もできませんでした。彼は、ボーイフレンド(とその彼氏)との生活を続けたいと言っていました。翌年、私はアリゾナに引っ越しました。
アリゾナでの生活が始まって数ヶ月後、父が私を訪ねてきました。父が私の家でシャワーを浴びた後、浴槽が汚れていることに気がつきました。 まるでしばらくシャワーを浴びていないかのようでした。父は周りで何が起こっているのかすら分からない状態だったので、よく飛行機に乗って、私の家までたどり着けたなと思いました。私は父に休んでもらうことにしました。父はこれまで一晩中起きて、一日中寝る生活に慣れていました。私たちは何度か外食をしました。本当に悲しかったです。そこにはもう、私の父はいませんでしたから。父は既に死んでいるようでした。父のライフスタイルは父を破壊し、この世の生き地獄を作り出しました。父は決して不満を漏らしませんでしたが、長い間苦しんでいることは分かりました。毎晩、父がボーイフレンドに電話をすると、彼らは父の家でパーティーをしていました。 私は父がかわいそうだと思いました。父に、私の家に住むことを提案しましたが、父はそうすることができませんでした。
私は、クリスマスに帰省しました。父と一緒にテレビを見たり、中華料理のテイクアウトを食べたりしました。帰り際、父は私をこれまでにないほど強く抱きしめてくれました。それが、生きている父を目にした最後となりました。 その年の3月、私が教壇に立っているとき、父のボーイフレンドから父が亡くなったという電話がありました。覚醒剤でハイになっていた父は、浴槽の中で気を失い、溺れてしまったのです。父は52歳でした。私は教職に就いてまだ1年目でしたが、父の葬儀を一人で執り行うために、ミシガン州まで行かなければなりませんでした。
父の死後も、私は数年間、同性愛を支持していました。しかしカトリック教会に戻ってからは、神様が私の目を開いてくださり、私は同性愛の本質を見ることができるようになりました。今では、私が子どもの頃に目の当たりにしたゲイのライフスタイルを振り返り、それがゲイとその家族、友人、社会など、すべての人にとってどれほど有害なものであるかを正直に語ることができます。 私の父がしていたようなことに参加しないゲイの男性もいると思います。ですが私は、同性に惹かれることに悩みつつも独身を生きる男性に、より多く会いました。 私は今でも父を愛し、尊敬しています。そうでなければ父のために祈ることはしないでしょう。
私は父のために毎晩祈っています――父がひどく悩み、迷っていたことを知っているからです。父は、私に「結婚は教会では”秘跡”だから、自分は『同性婚』は支持しない」と言っていたのを覚えています。晩年、父は自分の犯した過ちを理解していたように思います。父はもはや破壊的な生活を送っていませんでしたが、自分のしてきたことに気がつき、落ち込んでいたのだと思います。父の人生の選択は、ゲイのライフスタイルがどこに行き着くかを示しています――つまり中毒、うつ病、自滅です。
子どもの頃から機能不全に陥った私は(物事の)「正統性」を求める大人に成長しました。私は、神のご意志から外れた道を選ぶことの悪影響を知っています。私の最初の機能不全の結婚が無効と宣言された後、私はさらにカウンセリングを受け、その後再婚してカトリックの信仰に戻りました。夫もカトリックに転会し、私たちには今、6人の可愛い子どもたちがいます。父が亡くなってから、もう10年が経ちました。
リンク: Marie – In college I would proudly declare how I had a gay father | Them Before Us