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カトリックの私に同性パートナーが言った意外なこと

・・・わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださ[います]・・・

(‭‭ローマの信徒への手紙‬ ‭8・26‬ )

カトリックの伝統に「ノヴェナ」という信心業があります。同じ意向を九日間連続して祈るものです。この祈りを通して、思いがけない体験をしたクリスの話をご紹介します。クリスはこの体験を境に、同性愛の傾向をもつ人々のためのミニストリー、Courage International のメンバーになりました(以下、和訳。リンクは文末)。

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私と私の元同性パートナーがひょんなことから、Courageのメンバーになることになった経緯をお話しします。

12月8日のその日――正確に言うと、待降節中の「無原罪の聖マリア」の日に、私はカトリックの本屋で「諸国の王であるイエスへの信心」のパンフレットを見つけました。その呼び名でイエスをたたえる、この「聖体拝領のノヴェナ」には「かつてない強力な“効果”」があると書かれていました。翌日、私はミサにあずかり、このノヴェナを始めることにしました。

9回の連続聖体拝領を受けるうちに(9日間連続でなくても可)、私は自分の生き方に対して、大きな疑問を抱くようになりました。私は同性に性的に惹かれるカトリック信徒です。過去8年間、カトリックではない男性と誠実で献身的な関係を築いてきた私ですが、それまでも私たち二人の関係の性的な側面について、うしろめたさを感じていました。彼も同じだったようですが、二人ともそのような煩わしい考えをいつも頭から閉め出していました。クリスマスの一週間ほど前、私はノヴェナの条件であった「ゆるしの秘蹟(※告解)」を受け、自分の「性的な罪」を――臆病にも、それを具体的には説明せずに――司祭に告白しました。この告解をした後、私はクリスマスの日にも、この「清い状態のままでいる」ことを望み始めるようになり、実際にその通りになり、おかげで(その年の)クリスマスのミサは、私にとって非常に特別なものとなりました。その時から、私の“疑念”はさらに大きくなりました。私は、それ以降もずっと「清いままでいたい」と思うようになったのです。しかしそれは、友人のマシューとの関係が非常にややこしくなることを意味していました。私の考え方が変わったことをどうやって彼に伝えればいいのだろう?

1月6日、私は今度はマシューのために2回目の聖体拝領のノヴェナを始め、この混乱した状況を解決するために主に助けを求めました。「どうにかしてマシューの心を変えて、彼から私に『もうセックスはやめよう』と言わせてください」。私は、自分のカトリック倫理を彼に強要していると思われたくなかったのと、私たちの性的側面を拒否することで、彼がよく興味を示していた教会から遠ざかってしまうのも嫌だったのです。つまるところ、過去8年間、どんな障害にも耐えてきた私たちのお互いへの献身が、マシューに多くの癒しをもたらしたのです。彼は幼少期に受けた虐待の影響で多重人格障害(解離性同一性障害)を患っていましたが、私たちは彼のこの癒しは、互いへの愛を通して、神から与えられたものだと感じていました。

1月10日の日曜日のミサで、このノヴェナのための2回目の聖体拝領をした後、私は人生最大のサプライズを受けることになりました。その日の夜、マシューは私に大事な話があると切り出しました。「私はカトリック信者になりたい。入門講座に行って、洗礼を受けたいんだ」と宣言したのです。私は後ろに倒れそうになりました――特にその後に続いた彼の一言を聞いて。「ご聖体も受けたいんだけど、それはちょっと難しいんだよね。残念だけど、私たちのセックス・ライフは終わりにしなければならない。聖体拝領をしながら、私たちの性行為を続けるわけにはいかないから。いずれはこうなるはずだったんだ。でも、私は子どもの頃にこの性的な部分がダメになってしまってたから・・・クリス、君は『貞潔の徳』についてどう思う?」

3日後、私はきちんと“完全な”告解をしました。よく通っていた都心のチャペルの司祭に会うのには時間が遅すぎたので、帰りに大聖堂に寄ることにしました。そこで「告解は予約制である」という案内を掲示板に見つけました。1年半前にここで出会って、私が感銘を受けた司祭に会えるかもしれないと思い、胸を躍らせながら司祭館に行ってみました――その神父様がドアを開けてくれました! 彼は私の告解を聞くことに同意しました。ありがたいことに、私が自分の同性愛について話をしても、彼は私を裁くような話し方はせず、「あなたは他の男性と罪をおかしたのですね 」と穏やかに聞いてくれました。神父様はそれよりも、私が罪をおかした状態で聖体拝領を受けてきたことを心配してくれました(※訳注 大罪のうちに聖体拝領をすることはさらなる大罪を重ねることになるため)。私は実はその時点では、自分の罪に対する自責の念を感じてはいませんでした(ある意味、自分の告白した罪が、本当に”罪”であるとは意識していませんでした)。その時には特に何も感じませんでしたが、自分は反省すべきだろうとは思いました。その後、神父様と再びこの件について話すまで、私はそれまでおかした数多くの冒涜的な聖体拝領について、絶望を感じるようになりました。その日から、私は毎日(可能な限り)ミサにあずかりたいと強く願うようになりました。ミサへの参与を重ねるごとに、私は同性愛行為が間違っていることを見抜く霊的な目を少しずつ取り戻していきました。私は主の前で、時おり涙を流しました。聖体拝領時には、イエスとの深く感動的な一致を私は経験し始めました。8年前に、主の近くにいたことがどれほど素晴らしかったかを思い出し、今では良心の呵責を感じることなく、この霊的な親密さを再開できることに気づきました。「ゆるしの秘跡によって無垢な状態」に戻され、純粋でいること、貞潔であることが驚くほど爽快に感じられました。

その後、数日から数週間の間に、私はマシューが気を変えて、貞潔の徳への願いを撤回するのではないかと半信半疑でした。しかし彼はそうしませんでした。1月の終わりには、彼は寝室を別々にしようと言い出し、それを実行しました。それから4ヶ月以上が経ちましたが、私たちの貞潔の生活は続いています。

「Courage」使徒職は、私たちの努力をとてもよく支えてくれました。Courage は会員に性的指向を変えるように要求することはしませんが、神との歩みを通して貞潔な生活を送り、カトリック信仰への霊的な献身を深めていくことを奨励し、支援してくれます。

あの時、私は知らなかったのですが、私が大聖堂で告解をお願いした神父様は、教区のCourageの第一支部のチャプレンであり、当時その支部はまだ立ち上がったばかりだったのです。神様ってすごいですよね? 神父様は、Courage の集まりに参加してみたらどうかと優しく提案してくれました。家に持ち帰ったCourageの冊子をマシューと一緒に読み、翌週の水曜日から参加することにしました。

現在、マシューは同じ神父様のもとでカトリック信者になるための個人指導を受けており、私もそのセッションに参加しています。同性愛行為は神の御旨に反しているという確信を持つようになった彼は、31年ぶりに心の平穏を取り戻し、今は洗礼と初聖体を心待ちにしています。

記事へのリンク:  Member Testimony: Chris - Courage International

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