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同性愛者への司牧で必要なこと

同性愛者を友人として尊重しながら、性と結婚に関するカトリック教会の教えをどうやって伝えればいいのだろう?司牧者として、信徒として、どうやって当事者に同伴すればいいか分からない・・・。そのような声を聞くことがあります。

元レズビアンのジーン・ロイドによる手記をご紹介します。自身の体験をふりかえり、同性愛者への司牧において必要だと思ったこと7つを挙げています。神のいつくしみと真理を人に伝えるために、私たちができることとは?(以下、和訳。リンクは文末)

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私の同性愛について、司牧者に知っておいてほしかった7つのこと

ふたつのお願いをしても良いでしょうか? 私を愛してください――でも、あなたが神以上にいつくしみ深くはなれない、ということを忘れないでください。同性愛の性行為を「善」とすることは、いつくしみではありません。真理を妥協せずに、私が真理と調和しながら生きられるように助けてください。

ジーン・ロイド

12歳の私の体の奥底から同性愛的感情が全身を駆け巡ってから、30年以上が経ちました。この感情は招かれざるもので、自分で求めたものではありませんでしたが、それは同時に力強く、無視できないほどの衝動でした。

クリスチャンとして、私のセクシュアリティと信仰の対立は、私の中でもっとも激しい葛藤となりました。カミングアウトして、レズビアンとして公に生きた後、私は貞潔の徳を生きるようになり、40代に入った今は、異性と結婚生活を送っています。私が「異性」と結婚しているということをわざわざ伝えなくてはいけないということ自体、この何十年もの間で、文化的風景がすっかり変わってしまったことを物語っているかもしれません。私個人の風景が変わったように――まったく違う様相ではありますが。

私の成長過程において、同性愛に対する、怒りに燃えたお説教をたまに耳にしました。近頃のミサでの説教はそのときのものとは違い、「愛の宣言」へと変わりました。思わず、喜びで叫びたくなるほどの変化です。そう、こうあるべきだった! と。その一方で、多くの司牧者たちはこの愛に伴い、聖書的性の倫理を”抑圧的で、理不尽な、不親切なもの”として遠ざけるようになりました。そのため、「同性愛者の性的関係や性行動を認め奨励する」ことが同性愛者を愛することだ、と理解されるようになってきました。

司牧者たちが愛のうちに行動したい、というその望みは素晴らしいと思いますが、それは、私のような人間が必要とする「真の愛」ではありません。その程度の愛ではなく、私をもっと愛してほしい! トマス・アクィナス神学専門の学者、ヨゼフ・ピーパー博士はこのように述べています。

愛とは、自分の愛する者の実生活における考えや行動すべてを区別なく認めることとは別物である・・・愛する者が、どのような状況においても自己に満足し、あらゆる状況において痛みや悲しみを経験することなく快適でいることを望むことでもない。「形だけの親切心」――愛する者の苦しみ以外のすべてに対して寛容でいること――は、真の愛とはなんら関係ない・・・自分が心から愛する者が「善」ではなく、自分にとって「都合の良いもの」を選ぶのを目の当たりにしたとき、それを簡単に見過ごせる者などいない。

このような真の愛で私を愛することは、すぐにできることではないですし、たやすいことではないでしょう。しかし、知識と真理は、日々大きくなっていく「倫理の崩壊」という荒波に、私たちが立ち向かえるよう助けてくれます。このことを踏まえて、私の同性愛について司牧者たちに知っておいてほしかった7つのことをここに記します。

1. 同性愛の起源

同性愛傾向を自ら選んだわけでないからといって、私が「生まれつきゲイ」だとか、「神が私をゲイとして造った」わけではない

同性愛の傾向に、たとえ遺伝子の影響があったとしても、それは決定的な要因ではありません。私たちの瞳や肌の色と同じように体の奥深くに組み込まれているわけではありません(※脚注1)。私自身の過去を振り返れば、それがどこから来たのかピンポイントで分かります。もちろん、他の人たちと私の体験は違うでしょう。しかし究極的には、原因など関係ないのです。同性愛行為は、神のデザインと神の意志とその善い御計画の外にあるものです。そうではないと主張するのは、聖書、歴史におけるキリスト教の権威と自然法すべてを無視することになります。私の同性愛傾向がどこから来たかに関係なく、私が貞潔の徳を生きることを手伝ってほしいのです。

2.体の尊厳

 私が創造主のデザインに沿って、自分の体を敬うようにするにはどうすればよいか知ってほしい

私は女性として生まれたのです。神は私を女としてお造りになりました。お願いですから、私の霊的生活とこの身体における生活を切り離して考えるような、グノーシス主義的二元論に陥らないでください。キリストは、受肉されたのです。私の、まさにこの体が、キリストの体の一部であり、聖霊が宿る神殿なのです(1コリ6・19)。同性愛の性行為によって、この体の構造に反するような行為をすれば、自分の体の尊厳を傷つけることになるのです。男性の同性愛者たちにとって、彼らの性行為は自分たちの体をさらに傷つけるものです――男性の身体的構造と、それに逆らったがために被る、身体的影響のために。私たちの体は復活するのです。私たちの体には価値があるのです。

3. 同性愛傾向の行方

同性愛傾向を変えろとか、もしくは傾向が変わる可能性を否定することは、私がイエスに従うための助けにならない

誰も私に、この傾向が変わることを保証することなどできません。イエス様すら、そのようなことはおっしゃいませんでした。でも、その可能性がある、ということも私に拒んでほしくないのです(特に、私がもしまだ思春期にある身であれば!)。科学においても人間の経験においても、こうした性的指向の揺れと変化の可能性は証明されています。

4. 変化の中身

この「変化」をもっと良い方法で定義してほしかった

長い歳月の間、私の同性愛的衝動は、連続的な炎から、時折感じる揺らぎとなっていきました。以前は異性との関係を考えることすらできなかった男性が、同性愛的感情をまだ少し経験することがあっても、今は女性と幸せに結婚生活を送っているならば、それは「変化した」といってもよいのです。

5. 同じ倫理のもとで

私に、キリスト者と同じ倫理的能力と責任能力を認めてほしい

もし、未婚の異性カップルが貞潔を生きるよう招かれているのなら、そして、キリストによってその力が彼らに与えられていると信じるなら、私もそう生きるべきなのです。私を、別の倫理的基準によって扱うことは、神の前で私の尊厳を貶めることになります。私だって、聖性に招かれているのです。

6. ダメと言うよりも大切なこと

神は「ダメ」と言う以上に、同性愛についてたくさんのことを教えている

神は確かに「ダメ」とも教えますが、体、性、被造物の構造やテロス(最終目的)の真理は、それ以上のことをあらわしてくれます。

7. 神の愛にまさるものはない

神の御計画やそのデザインについて「謝罪」することは、神や私を敬うことにはならない

私の逸脱した性的渇きが引き起こす痛みに対して、「共感」してくださるのはありがたいと思っています。ですが、神は恣意的に、私から善いものを遠ざけているわけではないのです。神はいのちと人間的繁栄へとつながるものを私に教え、私の尊厳が傷つくようなものから守ってくださいます。”偽りなき愛であれ”。私を愛し、私に真理を伝えてください。

ふたつのお願いをしても良いでしょうか? 私を愛してください――でも、あなたが神以上にいつくしみ深くはなれない、ということを忘れないでください。同性愛の性行為を「善」とすることは、いつくしみではありません。憐れみを――その文字通りに、憐れみを実践してください――“Com-passion(憐れみ): 共に・苦しむ”。真理を妥協せずに、私が真理と調和しながら生きられるように助けてください。私が皆さんに願うものは、私が自分の十字架を担いで、イエスに従うための手助けなのです。

※脚注1:双生児研究の重要性を理解しましょう。もし、性的指向が後天的作用からくるものではなく、遺伝子で決められるのなら、一卵性双生児の場合、結果は100%一致します。しかし実際、この一致率は低いのです。

参照:Bailey, J. M., Dunne, M. P., & Martin, N. G. (2000). "Genetic and environmental influences on sexual orientation and its correlates in an Australian twin sample." Journal of Personality and Social Psychology, 78, pp. 524-36.


元記事のリンク: Seven Things I Wish My Pastor Knew About My Homosexuality--Catholic Education Resource Center


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