同性愛から私を救ったのは、ロザリオを祈る父の姿だった
元ゲイ・ポルノ男優のジョーゼフ。父との関係、キリストとの関係――心の変化とともに見えてきたこととは?ジョーゼフは、ゲイ生活を送る人たちに向けて、現在、宣教活動を行っています(以下、和訳。リンクは文末)。
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私は毎日、父の厳粛な生きざまを目にすることができました。父は職業軍人でしたが、母の死後、父の人生は絶え間ない祈りの人生となりました。私がたまに夜中に目を覚ますと、そこには、教会でいつも祈るときと同じ姿勢で、父がひざまずく姿がありました。――教皇ヨハネ・パウロ二世『賜物と神秘』
ジョーゼフ・シャンブラ
2017年4月27日
子どもの頃、私は父を尊敬していたが、理解することはできなかった。私の生存は、この父にかかっているのだということは本能的に悟った。父は働き者だった。精力的に働いた。父は無から何かを創り出すことができた――庭、ツリーハウス、家の増築。父は、私に物質的な幸福を施す者だった。たまにケーキやドーナッツを買ってきてくれた時などは幸せな一日となった。そうした時には、父が満足していたことが分かったし、私もそれでハッピーだった。時々、私が何か過ちをおかせば、父は怒った。その時には懲罰を与える者として、私は父を恐れた。でも父を愛していたし、父も私を愛してくれていることは知っていた。だが、子ども心に感じていたことは、父は人間ではないということだ――私にとって、父は神だった。遠く離れた神。
父は野心的で、大胆で賑やかだった。私はそうではなかった。父は強くて頑丈な体つきをしていた。父は男の中の男だった。私は自分のことを男の子以下だと思っていた。父の横では、私はいつも縮こまっていた。父は何でも直すことができ、いつも適切な道具を選んでそれを正しく使ったし、トラックを運転し、巨大な木の梁をその筋力で持ち上げることもできたし、人にいじめられることもなく、誰かに騙されることもなかった。父のそばにいる時は自分は安全だと感じたが、自分に対する自信はなくした。私はというと、自転車でまっすぐ走ることはできず、ボールを5フィート以上投げることもできなかったし、ハンマーやドライバーを持てば、必ずそれを親指にぶつけたり、ネジ山をつぶしたりした。
私は代わりに鉛筆を手にして何時間も座って、うさぎや虹でいっぱいの空想世界を小さく描いていた。学校の男の子たちは容赦なく私をからかい、辱めたが、私は自分の身を守るために言い返すことすらできず、立ち尽くした。自分が恥ずかしかった。ある日、あまりにも怖くて粗相をしてしまった。父が校庭近くにいて、この失態を見ることなどなかったのだが、私はなぜか父がそれを見て知っていると感じていた。奇妙な話だが、私は、神と人間両方を失望させてしまったと感じたのだ。
学校に飾られていたイエスの絵は、少し女々しくて、常に微笑んでいるヒッピーのようだった。このイエスは愛について漠然とした教義を説いていたが、最終的には、不寛容と抑圧の政治的圧力に負けてしまった、とか――私は結局、彼がなぜ殺されたのかをはっきり理解することができなかった。なぜなら、このイエスがどうなろうと誰も気にしなかっただろうから。その頃の私の脳裏に焼きついたキリストのイメージは、ミュージカル映画「ゴッドスペル」に出てくる、間の抜けたフラワーチャイルドのようなイエスだった。この映画を真っ暗な体育館で全校鑑賞したが、それは私の人生を大きく変える体験となった。父が人間よりも神であったなら、このイエスは神よりも人間だった。父が堂々としていて、どこか威圧的だったとすれば、このイエスはありきたりで、うざったく思えた。やがて年を重ねるごとに、私はこの二人の神を軽蔑するようになった。同性愛の世界の中でこそ、完璧な男を見つけることができると思っていた。男らしくて力強く、しかもなんでも受け入れてくれる思いやりのある男を。
私は自分のゲイの神を見つけることはできなかった。周りの男たちも皆、まさしく同じものを探していたから。期待すればするほど、希望を抱けば抱くほど、私はますます自暴自棄になっていった。両親は――特に父は、私がこのような有様になってしまったことが耐えられなかったが、私は気にしなかった。私が「男を必要としている」と公にすることは、父への仕返しだったのだが、父はそれを理解してくれなかった。こうすることで、私は父が必要だと訴えていたのに、私は父がいつも私のことを考えてくれない、と責めていたのだ。ある日、父は私や友人の外見について(率直とはいえ)、厳しい批判をした。父が私を受け入れてくれるかどうかを試すために、ある週末、私はわざと風変わりな同性愛者仲間を家に連れてきていたのだ。父は彼らを歓迎しない、とはっきりと言った。私はこれをまた拒絶反応だと思い、家を出た。
時が経つにつれ、私は年とともに病んでいった。人生の選択肢は少なくなっていったし、今度は新しい世代の孤独な若者たちが、自分たちの救世主となりうる存在、つまり新しい神を探しにくるのを見るようになった。その頃には、私はゲイとしての意識を次のレベルにもっていかなければならないはずだった。何年もの性的探求と自由の後、自分にも「どこかに落ち着く」時が来たのだ。あるカトリック司祭が言っていたことだが、彼はそれが最良の選択だと考えていたようだ。神父によれば、私は「ゲイ」と「神」の両方を手にすることができるそうだ。しかし手に入れるどころか、結局得たものなど、なにひとつなかった。私は自分自身を憎み、エイズで苦しみながら息絶えた、はるか昔に死んだ友人たちを羨むようになっていった。少なくとも彼らの苦しみはもう終わったのだ――そう感じたから。
ある夜、私は病院の冷たくて硬い担架の上に忘れさられたまま、死を味わっていた。死にたいと願ったが、母は近くでイエスに祈っていた。私に代わって天に取り次ごうとする母に悪態をついた。母の神など、ほしくなかった。私の人生の中で、その神はいったいどこにいたんだ? いずれにせよ、その神はみすぼらしくてお粗末だった。でも、このみじめな死に際でやっと、強くあろうと、自信をもとうと決意したとき、だんだんと怖くなっていった。パニックに陥った。そしてついに、私はイエスに向かって叫んだ。するとすぐに、確かな安心感を与えてくれるイエスの存在を感じた。それとも、今までいつもそこにいてくれたのだろうか? 幼い時に、父がそばにいたときに感じたのと同じような感覚を覚えた――自分はもう安全なんだ、という感覚。しかしその後すぐに、ある不安がよみがえった。このイエス・キリストは1970年代に生きる、あの長髪のソーシャル・ワーカーと同じなのか?――ハグして、無料の食事券を渡して、私をそのまま路上に送り返すために、ここにきたのだろうか? 私は、戻りたくなどなかった。
行き場のない私は、家に帰った。放蕩息子は生きていて、両親は迎え入れてくれた。しかし私はまだ混乱していたし、疲労で気分が悪すぎて、それを祝うこともできなかった。しばらくの間、誰かと話すことも眠ることもできなかった。ショックで、自分が幼少期に連れ戻されたように感じた。私は助けを求め、真理を求め、生きることを必死に求めていた。父に向かって、神に向かって、手をのばそうとしていた。
父は初め、この状況に戸惑っていたようだ。父は私から少し距離をおき、私は自室にこもっていた。自分が祈っていることにも気づかずに、私は神に祈りをささげていた。あまりにも身体が痛かったので、子どもの頃に不正確に覚えた簡単な祈りさえ唱えることに集中できなかった。私は代わりに、ただ助けを求めた。ひたすら願った。それから数日間、隠遁者のように暮らした。しかし、まだ不安だった。
私は少しずつ自分の「独房」から出て、答えを探しに行った。両親の本棚に、ほぼ直行した。よく考えずに、2冊の本を手にして部屋に戻った。『聖書』と『カトリック教会のカテキズム』だ。どちらも読んだことはなかった。
それからの数日間、私は特定の箇所を選んで、何度も繰り返し読んだ。おもに、キリストの罪びとの赦しの話と、『カテキズム』の中で同性愛を扱った箇所だ。そこには慈しみがあり、真理のうちに宿る力があった。キリストは、私が小学生の頃に想像していたような無力な弱虫ではなかった。いじめっ子たちに立ち向かい、傷ついた人びとを慰めてくれた。でも、砂ぼこりの中にうずくまる彼らを放っておくのではなく、生きていくためのみことばと、私たちのあらゆる考えを導く掟を与えてくれた。出口を与えてくれたのだ。
私は、今や自分のすべてを賭けようと決めた二冊の本を持って、本棚に戻そうと部屋を出た。そこに行く途中で、父が祈っているのを目にした。あんなに集中して祈る姿など見たことがなかった。私が同性愛という監獄に自ら身を投じていた間、両親たち自身、憂さ晴らしと贅沢の世界に囚われていたそうだ。しかし、高価なワインや夜ごとの世界各地のグルメツアーなどの贅沢は、本質的にはむなしい食事であることに気づくようになっていった。今では、父の堅い意志のおかげで手に入れることができた贅沢を、両親はすっかり手放してしまった。父の野心が衰えたのではなく、父の望むものが変わっていったのだ。これまでの父の人生のすべては、物質的な目標に向けられていたが、今では目に見えない、純粋なものにエネルギーが注れるようになっていた。
私は階段の途中で立ち尽くし、半分身を隠して、父の指の間を紐でつながれた数個の小さな珠がすべり通っていくのを見ていた。子どもの頃に、ロザリオの祈り方を教わることなどなかった。過去数年間、ロザリオを見た記憶といえば、若い女性歌手のマドンナがいつも首から下げていたのを見たときくらいだ。私の中では、ロザリオはほとんど俗っぽいものになっていて、聖なるものではなくなっていた。マドンナはいつもその豊かな胸の間に、十字架の部分をわざとはさんでいたから。しかし、父の硬く荒れた手の中で、ロザリオは本来の意味と価値を取り戻した。子どもの頃に抱いたイエス・キリストのイメージもそうだが、私が考えていた以上のものが、父にはあったのだ。
放蕩息子を道で待っていた父は、放蕩息子よりも苦しんでいました。――尊者フルトン・シーン大司教
父に嫌われていると私が思いこんでいた間、父は実は私のために祈り、涙を流していたのだ。独りで沈黙のうちにしばしば行われた祈りーーその行いには思いやりがあった。私がゲイ・ディスコで踊っている間、父は祈っていた。私が名も知らぬ男たちとセックスに興じている間、父は祈っていた。私が自分の人生を放り出していた間、父は祈っていた。父は毎日ロザリオを唱えていたのだが、私は知らなかった。長い孤独の日々の中で――私が死の床に伏していた間のことだったなら、このような「ささやき声でする無意味な祈り」など、信じられないほど馬鹿げたことだと思っただろう。私のためにこのように努力しても無駄だと、父も何度か思ったに違いない。私は家に帰らなかったのだから。でも、父はあきらめなかった。これには、心の強さと堅い意思が必要だった。私が幼い頃に不快に思った、父のこうした素質は、キリスト・イエスによって、私の救いのための手段へと変えられていったのだ。
世に対する不満は、時に後悔につながる。いつも苦々しく不機嫌なままでいたいのでもないかぎり、前に進んで生き延びるために次にやるべきことは、自分自身と周りにあるものすべてに対する考え方を、根本的に見直すことだ――そして、これには謙虚さが必要だ。今や、ぼろぼろになった身体で、私は完全なる屈辱を味わっていた。自分を救ってくれる男らしい男を探すという無駄な努力の結果、私は幼少期に連れ戻されたのだ。(ゲイ・セックスによる)私の身体へのダメージはひどく、このおびえた幼い男の子はまだ自分のことさえままならなかったが、今では私を清め、赦しを与え、痛みを拭い去るのは、単なる人間にはできないということが分かった。父にでさえも、だ。なぜなら、別の人間が――どうやら「人間以上」の方が、私をすでに救い出してくださったから。そして、この救いの中で、父はひとつの役割を果たしてくれた。
元記事のリンク: Seeing My Father Pray the Rosary - Saved Me from Homosexuality
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