教会には同性愛について真理を伝える義務がある
「時代が変われば、カトリック教会もいつか同性愛行為を認めて、教えを変えるだろう」という意見を聞くことがあります。はたしてこの考え方は正しいのでしょうか?
米国のモンセニョール、チャールズ・ポープ神父のブログ記事をご紹介します(以下、和訳。リンクは文末)。
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惑わされてはいけません。キリストは同性愛行為を禁じており、教会はそれに反することを教えることはできません
Msgr. チャールズ・ポープ
2017年7月14日
『カトリック教会のカテキズム』2357番
これを重大な堕落としている聖書に基づき、聖伝はつねに、「同性愛の行為は本質的に秩序を乱すもの」であると宣言してきました。同性愛の行為は自然法に背くものです。これは生命を生み出すはずのない性行為です。真の感情的・性的補完性から生じるものではありません。どのような場合であっても、これを認めることはできません。
性革命の着実な進行により、多くのカトリック信者やその他のキリスト者が混乱のただ中にいます。しかしカトリック信者(信徒および聖職者)が、カトリック教会の「人間の性」に関する教えを思い違いしてしまったり、それに対して異を唱えることがあってはなりません。なぜなら聖書も教会の教理も、姦淫、私通、同性愛行為などの、あらゆる形態の不正な性行為は罪であり、いかなる場合も認められるべきではないと明確にしているからです。
一部のカトリック信者は、教会の教えを承知の上で、それを故意に拒み、公然と異を唱えていますが、その他のカトリック信者による異議表明は、”けたたましい大衆文化”と”沈黙する説教台”によってもたらされた混乱から生じるものです。
特に非が大きいのは、直接的な発言および意図的な曖昧さ、あるいは(罪びとに)必要な悔い改めに言及せずに「いつくしみ」を与えようとする、いかがわしい司牧方針によって誤りを広める助祭、司祭、司教たちでしょう。すべての罪びとに配慮することは、教会の絶え間ない務めです。すべての罪びとは愛と慎重さ、尊重を伴う司牧的ケアを受けるに値します。しかし神が「罪深い」と呼ぶものを、直接的な表現であれ、不明瞭な表現であれ、「善いものや大したことのないもの」と呼ぶことは司牧的ケアではなく、不正行為です。聖職者、信徒を問わず、私たちは皆、神の預言者として神の教えを伝え広めるように召されています。そしていつの日か私たち自身も、神の御前に立つ日が来るということを覚えておかなくてはいけません。
私はこれまでにも、私たちの現代文化における、性の混乱の様々な側面について書いてきました(例:姦淫、姦通、人工避妊、トランスジェンダー、性欲との戦い、結婚、離婚、ご聖体、性革命の犠牲者など)。今日のコラムでは、特に同性愛行為に関する神の教えに焦点を当てます。
残念なことに、ここ数ヶ月、ある聖職者が「同性愛行為は(カトリック教会で)認められる」といって、不完全な教え――時には明らかに誤った考えを広めています。同性愛行為がカトリック教会で認められることはあり得ません。
そこで私は、聖書と教会の教義を再確認しながら、この問題について再度教えなければならないと考えています。聖書は、同性愛行為を「重大な罪であり倫理的に逸脱した行為」と明確に記述しています。聖書を別の意味に「再解釈」しようとする人がいますが、それはせいぜい空想に過ぎないでしょう。彼らはよく、聖書の明白な意味を否定するために論理を歪め、信頼性を欠く歴史的見解を用いた理論を提示します。
これから例として、参考になる聖書箇所をいくつかご紹介します。しかしその前に、この考察の背景を説明し、非常に重要な二つのポイントについてはっきりと説明をしたいと思います。
考察の背景
私のこの考察はキリスト者に向けられたものであり、そのため、聖書を主な出発点としています。キリスト者は皆、神のみことばの規範性と権威性という信仰を共有しているはずだからです。他の機会であれば――例えば、俗界に向けての説明であれば、自然法を元にした議論の方が適しているでしょう。しかし今日ここでは、聖書と教会の教えが基礎となります。聖書は神の霊感によるものであり、信仰と道徳について誤ることなく教えています。この事実をカトリック信者はしかと受け止めなければなりません。世界に広がる混乱に飲み込まれないように、教義を明確で聖書的な理解を身につけていなければなりません。
ポイント① 罪とされているのは同性間の「性行為」であって、同性愛的「傾向」をもつ人ではない
ある人たちは同性に惹かれます。なぜそうなのか、どのようにしてそうなるのかは完全には解明されていませんが、それを経験する人にとっては大きな苦悩の種となっています。性的傾向は通常、自らの意思で選択ができたり、速やかにコントロールできるような問題ではないので、それ自体は倫理的に非難される対象ではありません。「誘惑を受けている」というだけで罪びとになるわけではなく、誘惑を受けること自体、罪になることもありません。むしろ、その誘惑に負けてしまうことが人を罪びとにしてしまうのです。
多くの同性愛者は貞潔の生活を送っています。同性愛行為の誘惑があっても、それに屈しません。これは勇敢で聖なることであり、称賛に値します。しかし悲しいことに、同性に惹かれる人々の中には同性愛行為の罪をおかすだけでなく、それを公然と誇示したり同性愛行為を明確に禁じる聖書箇所を故意に無視したりする人もいます。私たちは彼らが回心することを願い、祈るしかありません。しかし私たちは、同性愛的「傾向」と同性愛「行為」を区別しなければなりません。
ポイント② 同性愛行為を、あたかも神に禁じられている「唯一の性的な罪」であるかのように扱うべきではない
異性愛者もまた、性的純潔を求められています。同性愛行為を禁じている聖書箇所は、姦淫も明確に禁じています。聖書はこれらの行為を、神の国や天国を受け継ぐことを妨げる重大な罪としています(エフェソ5・5~7、ガラテア5・16~21、黙示録21・5~8、黙示録22・14~16、マタイ15・19~20、コリント一6・9~20、コロサイ3・5~6、テサロニケ一4・1~8、テモテ一1・8~11、ヘブライ13・4参照)。悲しいことに、今日多くの人々が聖書の教えを公然と破って生活しています。多くの人が「みんなやっているから大丈夫」と言って婚前交渉をしています。これは同性愛行為と同様に罪であり、すぐに悔い改めるべきです。
したがって同性愛行為は、聖書やキリスト教徒が特別視するものではありません。異性愛者であろうと同性愛者であろうと、例外なくすべての人間は、性的純潔、貞潔の徳と自制に招かれています。これに反すれば罪になります。もっとポジティブな言い方をすれば、神が貞潔を命じているということは、神の恵みがあれば、誰にでも性的純潔が可能だということです。神は私たちに、神が命じたことを実行する力を与えてくださるからです。
同性愛行為に関する聖書箇所
このような背景を理解した上で、同性愛に関する聖書の教えに目を向けてみましょう。前述のように聖書は明確に、そして曖昧さを残さず、同性愛行為を禁じています。例えば次のようなものです。
① レビ記 18章22 節
女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである。
② レビ記 20章13 節
女と寝るように男と寝る者は、両者共にいとうべきことをしたのであり、(必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる。)
③ 創世記19章
【同様に、ソドムとゴモラの滅亡の物語は、とりわけ、同性愛行為の罪深さを描いています。長くなるので、ここに全文を転載することはできませんが、創世記19章にその話が書かれています。ソドムとゴモラの物語が単に「おもてなし」についての物語であるという誤りを広めようとしている人たちがいますが、そのことについてはここに書きました。またすべてのカトリック信者は『カテキズム』が創世記19章を、同性愛行為を禁じる聖書的根拠の注釈に含めていることに留意しましょう。】
④ ローマの信徒への手紙 1章18~21 節
不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。
⑤ コリントの信徒への手紙一 6章9~10 節
正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、 泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。
⑥ テモテへの手紙一 1章8~11 節
しかし、わたしたちは、律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。 すなわち、次のことを知って用いれば良いものです。律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、 みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。 今述べたことは、祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音をゆだねられています。
これらの聖書箇所の多くで、同性愛行為はその他の性的罪の一つとして挙げられており、特別視されていないことに注意してください。つまり、同性愛行為は姦淫などの他の性的な罪と同様に罪であると、聖書は教えているのです。確かに同性愛について書かれた文章はそれほど多くはありませんが、同性愛について書かれている場合には、必ず明確に、そして妥協することなく禁じられています。さらに、この断罪は聖書の啓示のすべての段階で(最初から)最後まで一貫しています。
ある人は「イエスは同性愛について言及しなかった」と主張します。しかし、イエスはレイプや近親相姦、未成年者への性的虐待についても言及されませんでした。したがって、これらの問題におけるイエスの「沈黙」を「承認している」という意味に捉えるべきではありません。さらにイエスは「使徒たちに耳を傾ける者は、私に耳を傾けている」と言われています(ルカ10・16参照)。その使徒たちの手紙には、同性愛行為について明確に書かれており、姦淫、姦通やすべての性的不純行為とともに断罪されています。
悲しいことに、現代の多くの人々は同性愛行為に関するこれらの教えを、脇に置いやっています。彼らは同性愛行為は罪ではないと宣言するだけでなく、それがまるで善いことであるかのように祝福しています。キリスト者ではない人が、このようなことをするのも十分に悪いことですが、カトリックやキリスト者と名乗る人たちがこのようなことをするのは、もっと悲劇的です。
惑わされてはいけません。同性愛行為やその他の不正な性行為を認める人は、神の言葉を脇に追いやり、自分の意図に合うように解釈し直しているのです。詩篇2・1は「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか」と嘆いています。イエス様は、ご自分を利用して、その人自身の間違った目的を推進する者がいることをご存知でしたので、次のように警告されました。
マルコによる福音書 13章5~6 節
イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
聖パウロは、キリスト教の信仰を歪める者がいることも知っていました。
使徒言行録 20章29~30 節
わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。 また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。
私たちは神から発せられた真理を語り、それを生きなければなりません。真理を抑圧すれば、歪み、混乱、苦しみが生じます。現代の性の乱れは、性感染症、エイズ、堕胎、10代の妊娠、結婚生活の破綻、離婚、シングルペアレント家庭、ポルノ依存、性的虐待、性的倒錯、文化の衰退など、大きな苦しみをもたらしています。聖書にはこう書かれています。
ホセア書 8章7 節
彼らは風の中で蒔き 嵐の中で刈り取る。 芽が伸びても、穂が出ず 麦粉を作ることができない。 作ったとしても、他国の人々が食い尽くす。
ガラテヤの信徒への手紙 6章7~8 節
思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。
私たちの文化は確実に性革命の破壊的な影響を受けています。世の常ですが、大人の不品行の代償を最も大きく受けるのは、子どもたちです。
聖書や教会の教えに反対する人たちは、自分たちの考えに異を唱えること自体を「ヘイト」や「偏見」と呼ぶようになりました。信仰を生きる私たちは、同性愛行為を認めない教会の立場は、神のみことば――私たちはこれに従順かつ忠実でいるよう求められていますが――に基づいたものであるということを宣言しなければなりません。私たちが教えることができるのは、神が、そのみことばの中で一貫して啓示したものだけです。人に嘘をついたり、人の健康や究極の救いを損なう行為を肯定することは、決して「愛すること」ではありません。(他の人にはできても)ある特定の種類やカテゴリーにいる人々は――今回の場合は同性に惹かれる人々ですが――、聖書の教えに従って生きることは無理なのだ、と主張することこそ「偏見」でしょう。
最後に、教義の明確さを表しながら、同性に惹かれる人々を尊重する愛を示す『カトリック教会のカテキズム』の記述で、締めくくりましょう。
2357 同性愛とは、同性に対してのみ、もしくはおもに同性に対して性愛を抱く男同士、または女同士の関係を意味します。これは時代や文化の違いによって、きわめて多様な形をとっています。その心理学的原因はまだ十分には解明されていません。これを重大な堕落としている聖書に基づき、聖伝はつねに、「同性愛の行為は本質的に秩序を乱すもの」であると宣言してきました。同性愛の行為は自然法に背くものです。これは生命を生み出すはずのない性行為です。真の感情的・性的補完性から生じるものではありません。どのような場合であっても、これを認めることはできません。
2358 無視できない数の男性や女性が、同性愛の根強い傾向を持っています。この傾向は、客観的には逸脱ですが、彼らの大部分には試練となっています。したがって、同性愛的な傾向を持つ人々を軽蔑することなく、同情と思いやりの心をもって迎え入れるべきです。不当に差別してはなりません。これらの人々は、自分の生活で神のみ旨を果たすように、キリスト信者であれば、自分のこの傾向から生じる困難をキリストの十字架の犠牲と結び合わせるように、と呼びかけているのです。
2359 同性愛的な傾向を持っている人々は貞潔を守るよう招かれています。内的自由を培う自制の徳によって、時には友人の献身的な助けのもとに、祈りや秘跡の恵みによって、少しずつではあっても確実にキリスト教的完全さに近づくことができるし、またそうしなければなりません。
私は今日、皆さんがこの時代の誤りを決して広めないことを願って、この記事を執筆しました。
ローマの信徒への手紙 12章2 節
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
私たちはこの世に迎合するのではなく、心を新たに変えられなければなりません。現代に必要な適切な司牧は、教会に託された、古代からの、また使徒的な信仰をすべての人に明白にし、それを再確認することです。そのために、この考察が皆さんのお役に立つことを願っています。聖職者も信徒も、洗礼によって預言者となった私たちすべてが、愛と忍耐と勇気をもって真理を語ることができますように。
記事へのリンク: National Catholic Register - "Do Not Be Deceived: Christ Forbids Homosexual Acts, and the Church Cannot Teach Otherwise" by Msgr. Charles Pope
Msgr. チャールズ・ポープ神父は現在、ワシントンDCの大司教区の地区長・司牧者で、これまで司祭評議会、顧問会、司祭人事諮問委員会などで奉仕してきました。ワシントン大司教区のウェブサイトで毎日ブログを公開しているほか、司牧者のための雑誌、司祭や信徒を対象とした数多くの黙想会指導、さらには米国議会やホワイトハウスで毎週聖書の勉強会を行ってきました。2005年、「モンセニョール」に任命されました。