「寛容」の限界
「寛容な社会」「多様性」や「インクルージョン (社会包摂) 」という言葉が近年よく聞かれるようになりました。「相手に寛容であること」と「相手を愛すること」は、同じことなのでしょうか?
Word on Fireのロバート・バロン司教のコメントをご紹介します(動画の和訳。動画へのリンクは文末)。
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2013年6月7日公開の動画
数年前になりますが、New Yorker誌がこんな風刺画を掲載しました。私が気に入ってる絵です。素晴らしい風刺画だと思いました。いかれたイデオロギーである「包括性・社会包摂(インクルージョン)」について風刺しているものです。現代の教会でも、この問題は顕著ですよね。
風刺画の中には、ある牧師が熱心な聴衆に向かって話しています。きれいな教会の中で。説教を終えた後に、牧師はこう言います。
「私たちが掲げる平等のポリシーに基づき、ここでゲスト・スピーカーに、ご自身の意見を述べていただきます。」
牧師のすぐ横にいるのは、正装し、不安そうにメモを膝の上に置いて座っている悪魔です(笑)「包摂」を重んじるあまり、キリスト者も悪魔の説教に耳を傾けるようになった、ということです。
最近、この風刺画を思い出すきっかけとなった出来事がありました。ある人の衝撃的な説教を聞いたのです。キャサリン・ジェファーツ・ショーリという、米国聖公会の総裁主教の説教です。この方は、そんじょそこらにいるような人物ではなく、キリスト教界ではかなり有力な人物です。アメリカの聖公会のトップなのですから。
彼女はベネズエラのカラカスで、ある説教をしました。もちろん他でもない、今話題の「多様性」について話をしました――「ベネズエラは美しい国ですね。多様性にあふれていて」と。しかし、彼女は嘆きます。「私たちは、自分と違うものを受け入れることはなかなか難しい」、などなど。
彼女がもし、きちんと区別できていれば――「本質的な悪」と「珍しくて他と異なるもの」を分けて話しているのなら、彼女の論点は理解できます。もちろん「違う」ものであっても、善いものはありますし、それに対しては、私たちはオープンでいるべきです。それなら分かります。しかし彼女は、自身の意見を解説する過程において、驚くべき方向に話を展開していったのです。
彼女は、使徒言行録16章についてコメントをしていました。フィリピの地にパウロが来た時の話です。パウロはそこで、ある少女に付きまとわれます。占いの霊に取りつかれた少女です。悪霊が彼女に予言の霊力を与えていたのです。彼女は主人たちによって雇われ――というより、彼女は奴隷にされ、搾取されていました。彼らは少女を使って金儲けをしていたのです。
彼女は不運な状況に置かれた若い女性でした。悪霊に憑りつかれ、悪い人々に利用されていたのです。彼女はパウロに向かって、いろいろなことを叫び、彼に付きまといます。パウロはついにたまりかねてイエス・キリストの名によって、悪霊を祓いました。その結果、悪霊は少女から離れました。
ほんの先月までは、と言ってもいいでしょう――キリスト教的解釈の伝統全体が、この話を「解放の話」として読んでいました。パウロは、この若い女性を「解放」したのです。悪の支配、そして人間による搾取の支配から。
しかし、ジェファーツ・ショーリ主教はそう解釈しなかったようです。彼女は、この話をパウロの根深い「不寛容性」についての話だ、と解説したのです。彼女の解釈を実際に読んでみましょう。このように説明しています。
パウロは、おそらく自分の限界を見せつけられたことで、イラついたのでしょう。そして彼は奪うのです――少女から「霊的賜物」を。パウロは、彼が認める美や聖性以外を受け入れることができなかったのです。だから、彼はそれを破壊しようと思ったのです。
この解釈が問題なのは、聖書にきちんとこう書かれているからです。(少女の)この力は、美しいものでも聖なるものでもなく――悪霊の力によるものだ、と。パウロはこれらから、少女を解放しているのです。しかし主教はこの話をパウロの「自分との違い」に対する、「家父長制」的な、傲慢な不寛容性の話だと説きました。キリスト教の主教でもあるお方が、このような解釈を行うことすら信じられないですが・・・彼女は、さらに奇怪な方向に話を展開していきます。
使徒言行録の中で、この若い女奴隷に対して、パウロが何をしたかに気がついた主人たちは、パウロに対して怒り始めます。金儲けができなくなったからです。彼らはパウロとシラスに抗議し、その結果、町では混乱が起き、パウロは投獄されてしまいます。この有名なエピソードである「フィリピでのパウロの投獄」は、パウロが憐れみの心を持って、少女を解放したから起きたことだったのです。しかし、主教は全く違う解釈をします。本当に信じられませんが・・・彼女はこう話しました。
パウロが投獄されたのは、彼自身の行いが招いた報いなのです。彼が拒んだせいです。あの少女が、パウロと同じような賜物を神からいただいているという事実を認めることを。もしかしたら、彼女はパウロより、もっと才能があったかもしれないのです。
つまり、主教はもしかしたら、こう喜んでいるのかもしれませんね――紀元1世紀のフィリピの地に暮らすリベラルな思想警察が、パウロを首尾よく投獄した、と。パウロの根深い「家父長制」的な不寛容性に対する罰として。主教は、こう続けます。
その晩、パウロは牢の看守たちに話しかけたり、その後に地震が起きたり、いろんなことが起こります。しかしパウロは看守に愛をもって接し、その結果、彼らはキリスト者の信仰を抱くようになりました。しかし主教は、この話をこう解釈しました。
パウロはようやく正気に戻り、「家父長的」固執を手放し、思いやりの心を思い出しました。パウロは、この前の場面では神を忘れていたからです。
しかし、こう解釈する方がもっと単純明快ではないでしょうか?――「パウロは、神を一度たりも忘れたことはなかった。悪魔祓いをして少女を救い、看守をキリストへの信仰に導いたことで、彼を救った」という解釈の方が。別の言い方をすれば、パウロが「家父長制」から「思いやりの心」に転じたわけではなく、一貫して「愛の人」であるパウロが、様々な形態の奴隷状態から人々を解放したのです。こちらの方が、よりすっきりした明確な解釈ではないでしょうか?
最大の問題点は、この「混同」です。偉大な福音的価値である“愛”と、現代における重要な価値観である”寛容・包摂性”の混同です。愛というのは(これまでにも言ってきたことですが)、「相手の善を願うこと」です――これが愛の意味です。これこそが福音的、聖書的価値観です。相手の善を願い、そのために行動を起こすことです。パウロは一貫して愛を示しています。相手の善を願うことで。まず、悪霊を追い出すことで少女を解放しました。そしてパウロは看守にも愛を示します――キリスト者の信仰に導くことで。
今日、何が起きているかというと、愛は「価値」ではなくなったのです。今や、寛容性と包摂性が価値となっているのです。真の愛というのは、いろいろなことに寛容であることではありません。真の愛は、時に、何かを「除外しなければならない」のです。
今日、何が起きてしまったかというと、寛容性と包摂性と愛の危険な「合成」です。それは、どれくらい危険なことなのでしょうか?――まず、この説教を読んでみてください! そのうち、あなたも悪魔でさえ、「美しく聖なるもの」だと見なすようになるかもしれません。
動画へのリンク:Bp. Barron comments on Limits of Tolerance