教会に私の居場所はあるか?
なんで自分は他の人と違うんだろう。この体は、自分のものじゃないようだ――。子どもの頃から、自分の性について悩んできたハドソンのストーリーをご紹介します(以下、動画の和訳。リンクは文末)。
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違和感
小さい頃から、私は他のみんなと違う、と感じていた。
いつからかは、ハッキリ思い出せないけれど。
小さかったから、その意味はよく分かっていなかった。
自分が、もし女の子だったらどうだろうと考えていたのを覚えている。
女の子の洋服を着てみたらどうなるかな、と。
実際に、幼い頃から女の子の洋服を着たりしていた。
記憶が始まった頃ぐらいから。
なぜだか、そういうことをやってみたかった。
自分の体にいつも違和感を持っていた。
誰か別の人になりたい、とよく思っていた。
学校の休み時間には、いつも女の子と遊んでいた。
ゴム飛びをするのが上手くなったよ。
おそらくゴム飛びが上手な小2男子なんて、私くらいだったと思う 笑
そういうこともたくさんあって、私は、他の男の子とは合わないんだなと思うようになった。
男の子と一緒にいない方がいいんじゃないかって。他の男子はこうなのに、僕はこうだから、って。私はただ、居場所が欲しかった。
ある問い
初めてポルノを見たのは、9歳の頃だったと思う。今、世間に溢れているような生々しいポルノではなく、もう少しソフトなものだったけど。夕食の後の時間帯にテレビで放映されている番組だった。
テレビの映像を見て、そのイメージが、一瞬にして自分の脳裏に刻まれたような気がした。忘れることができなくなった。その時に感じた高揚感をまた味わいたくなって、その後、何年も自分の性を探求するようになった。そのイメージを何度も思い出そうとしたり、それに代わるようなイメージを探そうとしたり(そのテレビ番組は、二度と見れないから)。
そして、新聞の女性用下着の広告とかを見るようになった。でもある時、それを見るのにも飽きたんだ。まだ、9歳か10歳くらいだったけど。
その時に心に浮かんだ質問が、これ。「もし、この女性たちにさえ惹かれないのなら、自分はゲイなんじゃないか?」
事件
数年後、記憶から消せない事件が起きた。ある時、町のあるビルに行った時。結論から言うと、私は男性から性的虐待を受けた。
その時、私は十代で、死ぬほど怖いと思った。
事が終わった後、階段を上がってビルの外を出た私に、まぶしい太陽の日差しが当たった。私の人生はもう二度と元に戻らないんだ、とその時知った。
その男が私を触っている間、私の体は反応していた。
その時、感じたのは「そうか、私はゲイなんだ」ということだった。
だって、体の反応って、そういうことなんだろう?
その後から、ゲイやトランスジェンダーもののポルノ雑誌を見るようになった。それを見る度に、こう思った。「もう逃げることはできない。自分が誰かという事実から。だって明らかに、これが私なんだから」と。
これから逃れることはできないでしょう。だって、目の前にこんなに証拠が揃っているんだから。今だって、ほら、自分をごらんよ。その時、自分に改めて「カミングアウト」したんだ。さあ、この事実に直面しないと――これが私なんだから、って。
その瞬間を忘れることは出来ない。
その直後、私の希望は瞬時に無くなったから。当時の私は、きっといつか自分は夫となり、父親となるんだと思っていたから。私がゲイならば、家庭を築くことは出来ないし、女性の妻や、夫婦の子どもを持つことも不可能だから。
神様はなんて残酷な方なんだろう。私が何をしたっていうんだ。
なんで、私が「アイツ」にならないといけないんだ。みんながヒソヒソ噂話しするようなゲイに。「普通の人」だったら、手に入れられるもの――結婚、家庭とかも、もう手に入れられない。
それが、私が一瞬にして失った希望だった。
暗闇の中にいるようだった。
居場所
でもその時、私は自分の信仰に立ち返ろうとしていた時期でもあった。しばらく教会からは離れていたけれど。次に自問したことは「自分は、教会にいていいのか?」ということだった。だって教会は、性について、いろんなこと言うでしょう? 教会の中に自分の居場所を見つけることは不可能だと思った。
自分は教会と合うのかどうか悩んでいた時、日曜日のミサに与った。この日のことは決して忘れられない。北にある教会で、そこには7人くらいしか来てなかった。ジョーゼフ神父が、説教台から会衆にこのように話しかけた。
「同性愛について、もっと勉強しましょう」と。
本当にビックリしたよ。度肝を抜かれた感じ。それまで「同性愛について、学んでみよう」だなんて、言われたことはなかったから。
その後、帰宅して「同性愛」について、手に入れられる資料は全部読んでみた。いろいろな視点からの。教会の意見、社会的な意見など。もっと知りたかったんだ。教会が何を言っているのか。人はどう言っているのか。
ハッキリと分かったことがある。世は、私にこう言わせたかったんだ。「これが”本当の自分”だ」と。「これが私の”アイデンティティ”」だ、と。自分が特に選んだわけでもない、性的傾向を「自分の”すべての基準”にするように」と。
それで気がついたんだ。自分に対して、もっと正直でいたいという確信を持っているからこそ、キリストを愛しているからこそ、「キリストの目」で、自分自身を見ないといけないということに。
私は、神の愛する息子。
キリストの愛する兄弟。
これが、何よりも「自分らしい自分」。
自分が同性に惹かれるという事実に、正直に向き合いながらも。
私のまるごとすべて
真理の探究を通して成長した今では、私はキリストのことをより深く知ることができるようになった。以前では、考えられないようなかたちで。
カトリック教会に自分の居場所はないんじゃないかと心配していたけれど、それが完全に真逆であることが分かった。カトリック教会が、私の家。私の居場所。世は私に、「そこに行ってはいけない」と言うけれど。
カトリック教会の秘跡を通して、私はキリストの愛の深さを知るようになった。私は神を愛しているし、みんなともその愛を分かち合いたい。
同性に惹かれていたとしても、自分の性別に違和感があったとしても、心の中で「自分は神のいのちを受けるのにふさわしくない」と感じていたとしても――。キリストは、私たち皆のために死なれたんだ。私たちに向かって両腕を広げながら。キリストは、私たちのまるごと全てを受け入れてくださる。
これだけは覚えておいてほしい。
あなたが、どんな人でもいい。どんな道のりを歩んできたかも関係ない。
私みたいに、あなたもキリストを見つけることができる。
キリストはかつて語られたように、私たちの心を満たすことができる。
キリストは必ず約束を守られる。
神に賛美!
動画へのリンク: Ascension Presents "Sexuality, Gender, & Discovering Catholicism"