待つということ
年齢がバレてしまうが、
私の中高生時代には、ポケベルやPHSが流行っていた。
それでももちろん世間の人全てがそれらを持っていたという時代ではなく、
流行に敏感な中高生や、大人でも仕事で必要な人だけだったと思う。
私は心配性の親に、半ば「持たされ」て、PHSを買ってもらった。
(ポケベルは、「あんなものは持つ意味がなく、単にオモチャだ」との判断で買ってもらえず、仕方なく親に内緒でコッソリ友達に買ってもらい、代金や通信費を立て替えておいてもらって、あとで支払うということをしていた。まぁ親にはバレたけど...)
とにかく私は、友達と約束して一人で長時間、遠距離のところに遊びに行くということができるようになった年齢には、なんらかの通信手段がすでに手元にあったと言える。
現代では、一人に一台ケータイ電話が普及し、いつでもどこでも誰とでも連絡を取ることができる。
そして、連絡の過程で自分が送ったメッセージを相手が読んだかどうかもわかるし、相手はどこにいるのかGPS機能でわかってしまう。
つまり今は、「待つ」ということが、無くなってしまったのだ。
待っていても、今相手がどこにいて、いつ頃こちらにも来られて、どういう状況だかすぐにわかるから、すぐに時間を潰せる。
その間ウインドーショッピングしていてもいいし、カフェに入っていてもいいし、ケータイをいじってゲームをしていても良い。
つまりは、「待っていない」のだ。
当時、PHSやポケベルを持っていたために本当の意味で、私は
待つ
ことをしたことがないのかもしれない。
それでも、その当時は今よりもそれらの通信手段を持ってしても、うまいこと相手と出会えなかったり、もどかしさがあったように思う。
なかなか来ない相手を待ちながら、
同じ景色をずっと見ていて、
その景色も普段と変わって見えたこと。
焦りや不安でその景色が変に歪んだり、暗い色合いを帯びてくること。
沢山の通行人の人たちの波が押し寄せてくるたびに、寂しさと不安が増してくること。
待つ間に相手のことをずっと考え、心配していたこと。
その時の匂いや音も、待つという行為の中に含まれていた。
技術が進歩して、便利になって、
現代の視点から見て言うところの、いわゆる「非合理的」な、「非効率的」な、「無駄」なことが極限まで削り取られていく。
まるで骨が剥き出しになっていくように。
でも、そのせいで、人が人を待つという体験が奪われてしまった。
時に切なく、苦く、大切な思い出のかけらを。
0でも1でもなく、
白でもなく黒でもなく、
一言では言い表せない心模様を。
ハッキリとした輪郭ではなく、何重にもオブラートに包まれたかのような外観を。
もう私たちは経験することがなくなっていくのかと思うと、だいぶ寂しい。
物事がどんどん明確になり、全体像がわかり、靄が晴れて進むべき道がくっきりと見え、
不明瞭なもの、不確定なこと、時間がかかることは悪とされつつある。
でもそれじゃ、あまりにも寂しくないだろうか。
「待つ」ということから、
ふと、そんなことを考えてみたりした。