モネ展と美術鑑賞法 ―思考のトレース―
『木に学べ』(西岡常一、小学館文庫552)という本がある。
西岡常一は法隆寺の棟梁。1995年に亡くなられている。
モネ展(中之島美術館)に行ったあと、この本をパラパラと読みなおした。
ちょっと美術鑑賞の参考になるかもしれないと思ったので、その一節を次に引用する。
「おまえはな、稲を作りながら、稲とではなく本と話し合いしてたんや。農民のおっさんは本とは一切話はしてないけれど、稲と話し合いしてたんや。農民でも大工でも同じことで、大工は木と話し合いができねば、大工ではない。農民のおっさんは、作っている作物と話し合いできねば農民ではない。」(p.209)
これは西岡が農学校時代に祖父から聞かされた言葉だ。
これを、言葉を変えて、こんなふうにも言えないだろうか。
「おまえはな、絵を作りながら、絵とではなく美術書と話し合いしてたんや。画家のおっさんは美術書とは一切話はしてないけれど、絵と話し合いしてたんや。(…)画家は絵と話し合いができねば、画家ではない。画家のおっさんは、作っている絵と話し合いできねば画家ではない。」
もちろん美術書による知識をもってして鑑賞できるのは素晴らしいとは思うが、実際にはなかなかそうもいかない。
ゴンブリッチの『美術の物語』は原田マハの紹介もあって人気のようで、私もあの本は気品があってとても好きなのだが、いかんせんよく覚えているわけではない。
会場の解説を見ればいいじゃないかと言われるかもしれないが、会場に行くのにも体力使っているしで、なかなか文章を読む気になれない。
それで、会場でただ目の前の絵を見て鑑賞ということになってしまうのだが、先の言葉を引くと、知識がなくとも「絵と話し合い」ができれば鑑賞をベターなものにすることはできるのではないかと思うのだ。
気に入った作品を、近くから、遠くから、何回も見てみると、「なぜこう描けるのか」と不思議に思えてくる。ここからはそれこそ絵との話し合いだ。
・なぜ構図をこのように効果的に切り取ることができるのか
・なぜこのような効果的なコントラストを用いることができるのか
・なぜ現実にはありそうもない色(物陰に濃い赤など)を入れながら全体として調和しているのか
そして自分が絵を描けるとして、目の前の作品と同じような感じの絵を再現できるだろうかと考えてみる。自分なら、
・取材地に行ってこの構図を取れるだろうか
・言いたいことを際立たせるような、このようなコントラストを設定することができるだろうか
・どう見てもそんな色はない箇所に、その色を置けるだろうか。つまり、説得力を増すための虚構を構築できるだろうか
と、そんなことを考えながら絵を見てみる。
つまりは「思考のトレース」という鑑賞法と言えるかもしれない(たぶん誰かが既に提唱しているだろう)。
もちろんモネのその時の思考状態など誰にもわからないだろう。モネ当人だってわかっていないかもしれない。日本語話者が、なぜこんなにも完璧に日本語を話せるのか自分でもわからないのと同じだ。
しかし、絵自体が、それを再現するためには押さえておかなければならないポイントを持っているとは言えると思う。絵自体が要求するそのようなポイントを自分なりに捉えてみるということ。それが、「思考のトレース」という言葉を使って私が言いたいことだ。
そして「思考のトレース」を深く行うことができるというのは、つまりはモネの絵を再現できるということであると思う。
これは別にモネの絵に限ったことでもないし、美術に限ったことでもないだろう。
「思考のトレース」の深さは再現模倣を可能にするし、再現模倣できるということは「思考のトレース」の深さを証明している。
たぶんどんな分野にでも言えることではなかろうか。
自分でも再現するつもりでモネの「絵と話し合」ってみる。
一つの鑑賞法として参考にしていただければ幸いである。
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